女子の着替えは男子の着替えよりも、たいていの場合、少し時間がかかる。 だから、女子寮では、監督生がベルをもって各部屋を興しに回る前に大概、みんなが起きている。エリザベータのルームメイトはその監督生だったから、彼女は余計人よりも早く起きて小さな洗面台で顔を洗っていた。 パジャマを脱いで、制服のブラウスに袖を通し、プリーツスカートを履いた。ルームメイトのフランス人の少女は、とうに着替え終わっていてドアの前で「コレ、行ってくる」と朝のベルを小さく振った。エリザベータはにっこり笑って「いってらっしゃい」と言った。エリザベータは、顎にかかるくらいの短いダークブロンドの髪を持つ少女が嫌いではなかった。丸顔で可愛らしい容貌だが、男勝りなところがあったから馬があうのかもしれない。小さいころ、男の子になれると信じていた自分には、好感が持てる相手だった。 彼女を見送ると、エリザベータはベッドに腰をかけて、洗面台についている鏡の前で、ルームメイトや他の女の子達と週末に買った口紅を塗った。使うのは初めてで、少しだけ緊張した。色は綺麗なコーラルピンクで少しだけ金色に光っている。 各々、自分に似合う色を選んだつもりだが、似合っているかどうかよくわからない。変ではないと思う。ただ、少しだけ唇が浮いているような気がしないでもない。色つきのリップクリームとも少し違う、不思議な感じがした。眼に初めて、少しだけアイラインを引いた時の感覚に似ていた。 エリザベータは花の髪留めにそっと触れてから、ため息をついた。 ルームメイトは監督生で、週に何回か朝の当番があるから、朝食時に一緒に食堂へ事はあまりない。こうして、起きてから、しばらく一人で過ごす回数も、ほんの少ししか残っていないのかと思うと急に寂しく感じた。同時に、最後に彼女と一緒に食堂にいけるのはいつだったろう、と考えて余計に溜息をついた。思っても、栓のないことだ。 彼女は気持ちを切り替えるために、ベッドのふちに腰掛けて別のことを考えた。ローデリヒのことだ。ルームメイトと一緒に食堂に行かない時は、いつも彼と朝食をとりに行く。 ローデリヒは、エリザベータの唇を見てどういう反応をするだろうか。似合うといってくれるだろうか。固いところがあるから、眉間にしわを寄せるだろうか。それとも、照れて顔を赤くするだろうか。わからない。どれもありえる気がする。想像すると胸がどきどきした。エリザベータは無意識にうっすらと笑っていた。ニヤニヤといっても良かったかもしれない。 昔、学内のパーティーで飾りつけのための造花を作ったことがある。彼の作った造花は繊細でとても綺麗だった。ピンセットで紙を綺麗に花の形にひらいて、それを上から細筆で色づけするのだ。だから、たくさんある造花の中でもすぐにどれかローデリヒが作ったものかわかった。 ただし、それを作るのには1つ3時間かかるのだ。 そういう、ローデリヒの、器用なのか、そうじゃないのかよくわからない部分を見ると微笑ましい気持ちになる。少しとろくさいところ、おっとりしている所。その癖、頑固。こだわりは決して譲らない。 花を作るのがあまりに遅いから、「自分、問題わかっても自分のペースでやってテスト最後まで解けんタイプやろ」とスペイン人の友人がからかうと「何か問題があるのですか?わかるからいいではないですか」とちょっと怒ったように彼は言った。 思ったことを率直に言っているけれども、どこか感情表現が苦手で素直じゃない。要するに、少し見栄っ張りなのだ。そういうところも、見ていて心が温かくなる。 バイオリンを持つ手の仕草が優雅なのにも憧れる。 あの立ち姿。ピアノの前に座る姿勢。貴族的でいっそ女性的、といっても良いかもしれない。しかし、女性的、と言ってもルームメイトとよく喧嘩しているフランス人の副会長のように、なにか、厭らしさが残るようなものじゃないのがいい。ピアノやバイオリンを演奏するのは、ローデリヒのレベルだと、物凄い体力を使う。額に、うっすら汗をかいて、いつも髪がそこに少しだけ張り付いていた。その姿は、勇ましくてその仕草にもかかわらず、男性的だった。 後ろを追いかけるとき、よく見ると、案外広い背中をしていて、それを見上げるたびに、やっぱりドキドキした。その彼が、こちらに振り返って微笑む瞬間。それを想像した。 そこまできて、彼女はハッとした。今、何時だろう?急いで壁の時計を確認すると、7時過ぎ。半から食事だ。妄想が過ぎてしまった。彼女は部屋の電気を消してあわてて食堂に向かった。 食堂の門の前にローデリヒは立っていた。小さく手を上げて「おはようございます、エリザベータ」と言った。いつものことだけど、なんて丁寧に美しく話す人なんだろう、そう思う。 「おはようございます、ローデリヒさん」 できるだけ、綺麗に、ローデリヒに恥を欠かせないように、注意を払って選りザべーたはその言葉を口にした。彼の顔を見上げると、ふ、と何かに気づいたような顔をした。 瞬間、彼女の心臓が跳ね上がった。ローデリヒは、何かいいかねたような、困ったような表情をして、それから「行きましょう」と言った。その反応は、少し、期待はずれだったかもしれない。でもわからない。今日はまだ長いから。 席まで寄り添って歩く。手をつなげばからかわれる。はやし立てられるのは嫌いだ。すぐに、「暴れん坊」の自分になる。ローデリヒは全然気にしていないような気もするけども、度が過ぎると、ほんの少しだけどたしなめられる。そうすると、エリザベータは彼の顔ではなく地面を見たくなってしまう。 乱暴で、男勝りで、喧嘩が強い、そういう自分は決して嫌いじゃない。けれど、たまに不安になるのだ。 食堂に座ってしばらくしてから。エリザベータは1つの視線に気がついた。 見てる。あいつ、すっごい見てる。 目を流すだけで、それを確認した。きっと向こうも気づかなかっただろう。けれど彼女は視線に気づいた。この人ごみの中で、よくその視線を書き分けこちらを見てくるものだと思う。その目は、ローデリヒに会うより前からずっと、エリザベータを知る目だった。 いつもより、じっとエリザベータを見てる。口紅に気づいたのかもしれない。おちゃらけている癖に、彼は監督生だった。不味いかもしれない、と一瞬だけ思った。けれど、彼はじっと彼女を見ているだけだった。まるで、悪いから仕方なしにそっちを向いているような、そんな目線だった。 またか、と思う反面、いつもだったら騒ぎかねないくせに、なんなのか、とも思った。休息に気分が盛り下がって憂鬱になる。 「どうかしましたか?」 ローデリヒが聞いた。 彼女は笑って、いいえ、なんでもありません、と言った。ギルベルトのことを考えてると、思われたくなかった。ローデリヒも不振そうな顔をしていたから、もしかしたらその目に気づいたのかも知れない。彼も、ギルベルトとエリザベータが昔から取っ組み合いの喧嘩をしていたのを知っていた。 今もそれは、続いていて、ギルベルトはしょっちゅう、エリザベータにちょかいをかけてはなぐられたり蹴られたりしている。まったく、お互い鼻水をたらして走り回っていたころから変わらない。 いや、違う、同じなんかじゃない。だって今は全然。 ふいに、考え始めると制服のリボンのあたりが重くなった。切り替えて、ローデリヒの顔を見ようとしても、それはしつこくこびりついた。エリザベータは、最悪、と心の中で毒づいた。口紅なんてしなければよかったかもしれない。心を落ち着かせるために、髪飾りの花に触れた。駄目だった。 この花。 心の中で、エリザベータは唇をかんだ。ギルベルトの視線は動かない。 あんた、監督生なんだから仕事しなさいよ、私なんか見てないで、ほかの生徒見るのが仕事でしょ!殴って、蹴飛ばして、彼が何も言ってないのに、黙れといいたくなった。小学校を卒業して、同じ寮制の中高一貫校に通うようになってからも、エリザベータは彼の急所を蹴り上げたし(一昨日もやった)痣をつけたことなんて何度もあった。 けれど、ギルベルトはもう随分前から、彼女に本気で手を上げたことはなかった。 ずっと、男の子になりたかった。いや、途中まで、本気で自分は男だと信じていた。 ギルベルトと日が暮れるまで、剣士ごっこに明け暮れていたころ、彼と交わす約束は決まって「男の約束」だった。 男にはなれない、といって泣いたときに、呆然と立ち尽くしていた、まだ小さい彼をエリザベータはきちんと、覚えている。棒切れと紙でできた剣を振り回しても、無力だった。なぜか、泣かされたような気分になったこともしっかりと感覚として残っている。そして、そんな気持ちになったのは初めてだった。 あの頃、あいつは、私をどう思っていたんだろう。男?それとも女? わからなかった。ただ、その時に彼が行った「お前なんか女じゃねぇ」という言葉を、未だ彼はエリザベータに向かってよく口にする。エリザベータが髪をとかすようになっても、昔と変わらない、おちゃらけて、横柄で偉そうな態度で親しげに話しかけてくる。 それは、小さくて、まだ同じ背丈だった頃、自分は女の子にしかなれないと知ったとき位は、面倒だと思ってもその喧嘩は楽しいものだった。彼も殴り返してきてくれたし、容赦がなかった。痛みで泣かされることもあれば、逆にかれが半ベソをかくこともあった。 しかし段々、髪が伸びて、自分の体が丸くなっていくのにつれて、変わらないギルベルトが鬱陶しく、ひどい時は、気持ちわるいとさえ思うようになった。 まるでへこたれずに、エリザベータにかまってくる。ほっといてよ!馬鹿じゃないの?。この台詞を今まで何回、彼にいっただろう。 だが、その頃、もう一度だけエリザベータは、彼の前で泣きたいと思ったことがある。 11歳から、12歳のころまでは女子のほうが成長の早く、少しだけ男子よりも背が高い。それを通り越して、彼らが、まるで音急にその背を伸ばす頃、初めて生理が来た。パンツに、血のシミがいくつか、点々とついているのに、エリザベータはびっくりして泣いた。自分が女の子だ、と思い知らされて苦しかった。そうして、自分が驚いていることがショックだった。 まだ、どこか、自分にはいつかきちんと男の子と同じものが生えてくるんだと信じていた。しかし、それはなかった。代わりに赤く、黒い血の塊が、彼女にそれがありえない話なのだと教えた。男にはなれない、と言われたときよりもずっとショックだった。 まだ男になれるという思い込みも、いくら男子よりも腕っ節が強くても自分はもう女の子だと思ってそう振るまっているという思い込みも一度に崩された。膨らんでいく胸も、高いままの声が恐ろしかった。思うように伸びない背が歯がゆかった。 誰かにいえるはずもなかった。悩みを人に話すのは好きじゃない。小さいころからそうだった。けれど、彼と足の速さも変わらないくらいの小さな頃、悩み事があって俯くたびに「なんだったらこの俺様が聞いてやるよ」といって話をさせたの彼だった。話をするたびに「聞いてくれてありがと。他のやつらには言うなよ、男の約束だからな!」と笑った。 逆もあった。彼なら、黙って聞いてくれるかもしれないと思った。自分より少しだけ高くなり始めた背、いつの間にか遥か遠くまでボールを投げられるようになった肩。一人きりの女子トイレに、当然彼はいなかったけど、その胸で声をあげてすがりたかった。いつかの頃、みたいに呆然としたかもしれない。頭を撫でてくれたかもしれない。はたまた、抱きしめてくれたかもしれない。 どれも叶わなかった。エリザベータは小学校のトイレの中で、一人、声を押し殺した。嫌だった。そうして、すがりつけば、きっとギルベルトは昔と同じように、不器用でも優しかっただろう。必死に慰めようとしたり、どうしていいわからずに一緒に呆然としたり、もしくは行き過ぎて変な言葉を自分にかけたかもしれない。 きっと、どうやっても、自分を包んでくれただろう。そうして彼の中で自分は本当に女の子になってしまう。それは、男の子だった自分を殺すような気がした。年齢の幼さがそう思わせたのかもしれない。それが嫌でエリザベータは、何回か「ギル」と呟きながら泣いた。まるで、正義の味方みたいに、扉を開けて助けてくれることを心のどこかで祈る自分が、下着についたシミみたいに一番気持ちわるいと思った。 ← → |