変わったのはエリザベータが髪を伸ばすと言いだした時だ。それまで、肩まで伸ばした髪を簡単に束ねていただけだった。


「男にはなれねぇんだって」


 その声を聞いて、右手に握る、剣だった筈の新聞紙がただの神に戻ってしまった。ギルベルトは、世界が急に夕方のセピア色になってしまったようなその感覚を、今でも覚えている。まだ、指で年を数えていた頃。彼女の右手には魔法の槍。道で拾った木の棒とチラシで出来ていた。
 ギルベルトは、息が苦しくなって、「てめぇなんか女じぇねぇ!」と喚いた。彼女は泣いた。しゃがみ込んで泣いた。まるで、鼻たれの弟が泣くときみたいにボロボロと涙を流すのに、ギルベルトは立ち尽くした。公園には、芝生が生えていて、ところどころ、小さな花が咲いていた。
 喧嘩をした事は何度もある。青あざ、擦り傷、酷いときは骨折だってした。二人で騎士ごっこをして、箒や棒きれを振り回しては怒られた。
 新聞紙を握ったまま、初めて「泣かせた」とギルベルトは思った。


 それでも次の日、彼女は膝小僧の見える半ズボン姿で「公園行こうぜ!」と、おじさんに仕込まれたという乱暴な言葉使いで現れたのを覚えている。


 いつから、剣士ごっこをしなくなったのは覚えていない。きっと年を数えるのに、両の指では足りなくなった頃だろう。
 伸び始めた髪を梳く為に、鏡と櫛を持ち歩くようになって彼女は男勝りで、殴り合うこともよくあった。寂しいと思ったのは中学に入って制服がスカートになった時だった。女子にもズボンも選択できる学校もあるが、彼等が進学した学校は、スカートだけしか支給されなかった。ギルベルトは首元にネクタイを締めるようになる。寮も別々だった。クラスは男女混合で、同じ授業を受けることもあったが、体育は別だった。  彼女は水泳部に入った。平たかったはずの胸が、水着越しに膨らむのを横目で見ながら、ギルベルトはエリザベータが自分とは違う動物だと知った。いつしか、男友達と過ごす時間が増えて行った。授業が終わってサッカーをしに芝へ出る。成人指定の雑誌を手に入れて、教師の目を盗んで回し読みをする。寮の部屋では平気で半裸で過ごした。
 そうしているうちに、エリザベータの横に一人の男が出現した。名前はローデリヒ・エーデルシュタイン。ギルベルトのいとこだった。


 ローデリヒはギルベルトが、似ているという人は先ずいない。良く言えば身軽で、悪く言えば落着きがなく見えるのがギルベルトで、よく言えば落ち着いていて、悪く言えば老成している風を受けるのがローデリヒだった。彼はダークブロンドの髪を自然に後ろに流して眼鏡をかけている。その所為か、年齢に似合わず、きどった印象を受けた。音楽家を目指していて、高校を卒業したあとはベルリンに戻って芸術大学に行くらしい。ピア二スト特有の大きな手、しかし綺麗な長い指をしていて、それが余計にとり澄ましたような雰囲気を醸し出していた。昔から、仲はあまりよくはない。嫌いというよりは、いけ好かないのだ。
 彼のことも、幼い頃から知っている。中学に入りたての頃は、もっと鋭く、神経質な印象があった。見方を変えれば子供だったのかもしれない。それが、だんだん落ち着いてきて、言う言葉が口調の柔らかさに反して遠慮がないのは変わらないが、高校の卒業も前にした彼は今、どこかおっとりしている。
 そのローデリヒの横で、エリザベータは長い亜麻色の髪に花の飾りをつけて揺らしていた。何度、ちぎってやろうと思っただろう。彼女は、言葉使いもいつの間にか柔らかく、声は高いままだった。そんな彼女に、ギルベルトが構おうとすると、軽蔑の目で見る。その事に気づいたとき、ギルベルトは「クソ!」と天を仰いだ。

 
 俺が、何したって言うんだ。


 強いて言えば、ギルベルトは変わらずエリザベータに接していた。まるで、他の男子にするのと同じように。汚い言葉で、乱暴な口調で、やかましく。彼女はそれが嫌なのか、平手で殴るのではなく、ギルベルトの急所を蹴りあげる。
 その度に、ギルベルトは痛みをこらえながら「やっぱり女じゃねぇ……」と呻いた。蹴った足元から、スカートの中を覗こうとすると、いつもしっかりスパッツを履いている。色気ねぇの、と呟くと、余計にコテンパンにされた。殴ることも出来やしない。白い太腿が見えてそれだけは良かった。


「あんた本当最低!」


 それが彼女の言い分だった。お陰で、すっかりギルベルトは学校のコメディアンで、悪友に、ニヤニヤされながら肩を叩かれる学生生活だった。そのたびに、フランス人に「黙れヤリチン」とか、けなげやなぁと笑うスペイン人に「五月蠅ぇロリコン」と悪態をついた。俺は何も言ってない。他にいくらだっている。お前らだってそうだろう。イギリス人の生徒会長がいつもこきを使っている南方系の少女の横で、からかいもせずに、ただ黙って溜息をつくのは、少しだけ慰めになった。


 今、口紅を塗ったエリザベータがギルベルトの前にいる。いや、目の前にっ立っている訳ではない。卒業を間近にした日の食堂で、何人かの生徒のに紛れて、ローデリヒの横に座っている彼女の横顔を見つめている。大人になっちまう、とギルベルトは思った。自分がではない。エリザベータがだ。大人の女になる。その口紅は自分で買ったのか。貰ったのか。胸が騒いだ。
 新しい生徒会長が、ギルベルト達の長テーブルを指で示した。それは、そこのテーブルから今日の食事についていいという合図だった。
 ギルベルトは思考を消した。腰にさしたベルトのスティックに意識を集中する。彼は、イギリス人とスペイン人とフランス人と4人でバンドを組んでいて、ドラムを担当していた。その二本のスティック。食事が終わったら、音合わせをする予定だった。頭の中でリズムを叩く。その筈なのに、目が勝手にエリザベータを追った。薄い色の口紅。横にはやっぱりローデリヒがいる。胸の中で鳴る音楽は加速度を増す。横にいるのは、俺の予定だったんだ。彼女はトーストにバターを塗る。すっかり線が丸くなった。ローデリヒは穏やかに笑う。綺麗な絵だった。


 俺の何が奴に劣るって言うんだ。ギルベルトはそれでも思った。


 馬鹿だ馬鹿だと言われるが、9月からは医学部へ進学することが決まっている。頭は決して悪くない、むしろ切れるくらいだと思っている。じゃぁ顔か。日頃、三枚目の扱いばかりうけるが、女顔だし、ローデリヒにはない精悍さがあいまって格好いいと言っていいだろう。サッカーじゃ寮のチームでキャプテンだったし、フェンシングでも学内で一番だった。きっと自分はプロイセンの騎士の生まれ変わりに違いない、と半ば本気で信じている。こればかりはローデリヒは絶対、自分に叶わないという自負があった。「一人楽し過ぎる」なんてよく口にするが、本当にそうかと言われれば絶対に違う。むしろ、信頼されてるとすら思う。なら音楽か。確かにローデリヒのバイオリンやピアノは凄い。彼の指揮するオーケストラがあるのなら、行ってみたいとすら思う。しかい、ギルベルトはドラムが叩ける。その腕は、ローデリヒも認めるだろう。似合わないと言われるが、フルートだって吹ける。
 
 じゃぁ、何が、何が。俺の何がダメだって言うんだ。

 ギルベルトは、腰に挿しているスティックをローデリヒに向けて投げつけたくなった。そうすれば、エリザベータが飛んできて、ギルベルトを殴る。だから、ギルベルトが彼女を庇うことはこの先もあまりないだろう。仕方なく、ギルベルトはただ何時ものように、食事をした。しばらくして、先に食べ終わった彼女たちは、席を立ってしまった。見ることも、もう出来なかった。食べ終えて、音楽室に向かおうとすると、声をかけられた。エリザベータだった。

「何見てたのよ監督生。何か目をつけられるようなことしたかしら?」

 そうだった。ギルベルトは、寮の監督生だった。廊下の端で、彼女は不機嫌そうにギルベルトの顔を見上げた。ギルベルトは、何か悪い気がしてずっと見とれてた、とは言えず、「別に卒業前に目つけてどうすんだよ。面倒くせぇ」とごまかした。それから早口で「けど、口紅は卒業まで我慢しとけよ、先生うるせぇんだし」と言った。
「いいじゃないの、ちょっとくらい。多めに見てよ」
「まぁ、今さら謹慎も何もねぇけどよ。つーか俺、別にそれ位で誰にも報告しねぇよ。わかんだろ」
 口紅は似合ってる、と思った。ただ少し違和感がある。その、正体をギルベルトは探りかねて戸惑った。そう、と言った。少し不自然な沈黙があった。

「医学部、決まったんでしょ?おめでとう」
「ああ、ありがとう。お前も行きたいとこ決まったんだろ?おめでと」
「ありがとう」
 彼女は真っ直ぐギルベルトの目を見ていた。
「なんか、珍しいじゃねぇか」
「何がよ」
「だからなんか」
 馬鹿じゃないの?と彼女は言った。その台詞に何回、傷ついたか、ギルベルトは考えたくなかった。
「それ、これから練習?」
 エリザベータは、ギルベルトの腰に刺さっている二本のスティックを見て行った。
「ああ。ラストだしな。フランシスですら気合い入ってるぜ」
「どうせなら、ローデリヒさんとフルートとピアノで共演すればいいのに」
 いつもの調子が戻ってきた。
「卒業公演二回出ろって言うのかよ。あいつ、絶対練習しつけぇからやだ」
「ローデリヒさんを粘着質みたいに言わないでよ!」
 ローデリヒが粘着質なら、きっと自分だってそうだ。奇妙な事にギルベルトにはその自覚があった。
「それ、ちょっといい?」
「は?何が」
「だから、そのスティックよ」
 駄目なら別にいいけど、とエリザベータは彼女は言った。不思議に思ったが、特に断る理由がなかったので、二本とも手渡そうとすると、その一本だけを取った。表面や先を撫でたり、持ち上げて下からその細い棒を覗く様に見たりして彼女はそれを観察した。その様子がおかしかったので、
「そんなに珍しいもんか?」
 と笑った。すると彼女は突然、その棒切れでギルベルトに切りかかった。ギルベルトは思わず、もう一本のスティックでそれを受け止めた。カン、と木と木のぶつかる音が鳴った。格好、まるで小学生のようだった。急なことに、ギルベルトが目を見開いて「何すんだ、まだ俺何もしてねぇだろ!やっぱり、お前は女じゃねぇ」と文句を言った。エリザベータの表情は良く見えなかった。ただなんとなく、口元だけに性質の悪い笑みを浮かべている気がした。


「何かする気だったの?」
「ちげぇよ」
 エリザベータは表情を消していた。けれどやはり、どこなく笑っているような気がした。ゆっくりとスティックを下げると、その先で彼女は自分の左手をトントンと叩いた。それを見て、2拍だ、と考えてしまった自分に、プロでもないのに職業病だと思った。
片方の手だけでスティックを持つのは、ギルベルトには奇妙な感じがした。
「卒業公演が終わったら、このスティック、一本くれない?」
 は?とまたギルベルトは目を丸くした。嫌なら別にいいけど、と彼女はまた言った。嫌とかじゃなくてだな、とギルベルトは言いよどんだ。ギターのピックのように、ライブが終わったら、その日の客に向けて投げてしまうこともある。
「一本って、なんで一本なんだよ。両方じゃねぇのかよ」
「両方貰っても、私ドラム叩けないもの」
 けどよ、とギルベルトは詰まった。
「なんで」
「だから別に嫌ならいいわよ」
 嫌も何もなかった。
「もしかして、何か思入れとかあるの」
 エリザベータはきいた。
「なぁ」
 ギルベルトは、エリザベータの質問に答えなかった。
 思い入れなら、今出来た。故にこのスティックが卒業公演で在校生に投げられることはない。
「お前、髪伸ばしてからか?ずっとそれつけてるよな。その花の奴」
「変?」
「いや、そうじゃねぇけど」

 右手にスティックを握ったまま、ギルベルトは、彼女の髪飾りに手をかけた。エリザベータは嫌がらなかった。ただ、少し体をこわばらかもしれない。無表情にギルベルトの顔を見上げた。
 小さな花の咲く公園で、立ちつくした頃から何年もたって、今は景色はまるでデコボコで色鮮やかな油絵のようだった。いや、それ以上にリアルだった。
 花を握ったまま「お前、これに思いれあんのか?」と聞いた。彼女の髪は柔らかかった。エリザベータは「あるわ」と答えた。どんな思い入れだよ、と聞くと「あんたに教えることじゃないわ」と言った。ギルベルトの頭の中にある顔が浮かんだ。意識して、すぐにそれを消した。何か上手く言おうとする。花の髪留めを、抜けそうなほどにグッと握って、床に視線を落とした。笑え、笑うんだギルベルト・バイルシュミット。目の前には口紅した女がいるんだぜ。偉そうに笑ってない自分は趣味じゃない。
 顔をあげて、昔と変わらない軽薄な笑顔を浮かべた。そうしているウチに、彼女の中にあった違和感の正体に気づいて、「口紅、ちょっと無理あるぜ」と言おうとした。それも言えなかった。フランス人の副会長なら言えたかもしれない。右手に触れる花は千切れなかった。もう一度彼女の顔を見下ろした。ただ、いつものように笑って「いいぜ、一本くらいやるよ」とそれだけ言えた。言って、髪留めから手を離した。 口紅は、無理があったけど似合っていた。
 そのまま、お互い片手にスティックを持ったまま、しばらく、話をした。


「じゃぁ、私行くから」
「そうか、なんつーか、卒業おめでとう」
「あんたも、卒業おめでとう」
 薄く色づいた唇を動かしてエリザベータはそう言った。ギルベルトの手に、もう一本のスティクを返し、生徒の波へ消えていった。ギルベルトはそれを見送った。花柄の光景も気分も一日6秒しか続かない。ギルベルトは、スティック二本を腰に差し、約束の時間に間に合うよう、少し早足で音楽室に向かった。