中学にあがって、制服がスカートに変わるころ、相変わらずギルベルトは乱暴にエリザベータに構ったが、もう昔みたいに殴ることはなかった。 ましてや、彼女がするみたいに蹴るなんてことは絶対にしなかった。ギルベルトが頬や腕に彼女がつけた傷の上に絆創膏を張っているのはよくあることだったが、その逆はもうなかった。たまに、彼が力加減を間違えて、思わずエリザベータが痛みに叫ぶと、いつもしまった、という顔をした。 昔なら、絶対になかったことだった。クラスの周囲が「あー、女の子になにしてんだよお前」とざわついて「違うって!最初に殴ったのこいつだろうが!」と騒ぎ出す。そうして、からかわれながら、彼はいつも真ん中にいるように見えた。自分だって同じ中心のはずなのに、胸の痛みも手伝って、そういうことが起こるたびに、まるで廊下から教室をのぞいているような気分になった。 彼の中身はそんなに変わってないのかもしれない、けれど変わった。変ったものがあった。 ギルベルトは、生徒会長たちと同じ列、つまり監督生たちの特別席に立っていた。たまに、下級生に早くしろ、とか、おはよう、と声をかけているようだ。その隙をついて、彼女はローデリヒにも気づかれないようにちらり、と彼を見た。腰には、ドラム用の細長い二本のスティックが刺さっている。エリザベータは、また花の飾りにふれた。そして、その細く白い棒切れを殆ど憎しみを込めた目で一瞥をくれすぐに目をそらした。 ギルベルトが他の悪友達に誘われてドラムを始めたのは中学に入ってすぐで、性に関心と興味を強く持っていたときだったからかもしれない。彼が腰に指す二本のスティックは彼女がついになれなかったものの象徴だった。出来るだけ表に葉出さないが、エリザベータは多分、自分がほかの女子よりも、そういうことに強く関心を抱きすぎている自覚があった。 ドラムのスティックだから、一本ではなく二本。毎日ではないが、休み時間になると、たまに教科書をたたいて練習していた。それを見ると、こう思う。そうよ、結局私には生えてこなかったわよ!逆恨みだと知っている。しかし、自分の分まで持っていかれたような感覚。代わりに、髪飾りの花が、自分の象徴だった。 彼だってそんなことは考えたこともないだろう、そうエリザベータは思う。いや、でもわからない。いつだって男の子のシモネタは、女子が考えるよりも遥かに酷いから。 食堂に校長が入ってくると、皆、小鳥のさえずりをやめて急に静かになる。監督生たちは、行儀の悪い生徒がいないか、厳しく全体を見渡している。ギルベルト同じバンドのベースである生徒会長が、彼女たちの列を指でさした。食事をとりにいっていい、という合図だった。 ローデリヒとトレーをとりに並んで歩く。ギルベルトは彼女のほうを見ていなかった。 ローデリヒとギルベルトは、従兄弟にしては似ていない、とよく言われる。たとえば、ローデリヒは、青と紫のラインが入った白い布製のペンケースを使っていて、それに金色の小さな、ボタン飾りがついている。たいして、ギルベルトのものは金属性だった。シンプルな黒い箱型ので、それを赤いゴムでとめている。けれど、エリザベータは知っていた。その中に入っている消しゴムは、二人ともどれだけ小さくなっても、きちんと元の紙のケースに収まっていることを。たまに、中の筆記用具をすべて出して、綺麗に拭いていることにも気づいていた。そうして、ギルベルトの中にまるでローデリヒと同じ部分を見るたびに、エリザベータはなんともいえない気持ちになった。それは、誰もが知っていて、誰も名前をつけてはしなかった、そういう感情だった。 けれど、彼女は結局、その胸のもやもやを切り裂いて、やはりローデリヒのほうを向いた。 「学校でのご飯も、もう少しで終わると思うと寂しくなりますね」 たぶん、女の子らしく言えたはずだ。ローデリヒは、そうですねと相槌を打った。丁寧に発音される声。素敵、と思った。よかった。きっとギルベルトは、いつものように、恨みがましく思っているに違いない。彼が好かないローデリヒの横で、口紅をつけた彼女が笑っているのを。 悪いけど、あんたよりも好きな人が他にいるのよ。 心の中で、そう言った。 ローデリヒは週末、エリザベータと二人だけで街に出ると、彼女を喜ばそうと、本当は節約家の癖に何か買ってくれたりする。それが何でもうれしくて、まるで自分にはもったいないような気分になることもあるが、エリザベータも彼に「よかった」と思ってほしくて精一杯可愛く笑って見せる。彼が少し、ほっとしたような顔をするのがいい。どう思われてるかわからないが、やっぱり可愛く見られたい。けれど、器用貧乏で少し抜けているのを守りたくなる。しかし、側で自然とエリザベータを女の子にする。ローデリヒは、エリザベータにとって、そういう不思議な存在だった。ギルベルトは違う。彼を守る必要はきっとない。だから、甘えることもできない。ギルベルトの前で、エリザベータは「女なんかじゃない」のだ。 けれど、彼は棒を2本持っている。いや、正確には3本だけど、でも。きっとエリザベータの分まで。私には花しかないから。 捨てなくちゃ、と何度か思った。そんな考えは馬鹿けている。でも二本のスティック。そのうちの片方を、いつまでも彼に預けているわけにはいかない、と思った。抱えるより、残さずに捨てることは。それでも抱えるならせめて自分で持たなきゃ。 食事を終えたのは、エリザベータ達のほうが早かった。ローデリヒと歩き出す。すっと側にいたい。けれど、彼女は衝動的に立ち止まっていった。 「ごめんなさい、ローデリヒさん。ちょっと先に行っててください」 困ったように笑った。 どうかしたんですか?と彼は聞いた。エリザベータは、ちょっと、ある子に用があったのを思い出しました、と言った。学校生活で、そんな台詞をはくのは別に珍しくはないはずだった。ローデリヒは、「わかりました。では、またあとで」と言った。 彼女は、きびすを返し洗面所に向かった。そして、ポケットから小さな鏡と、例の口紅を取り出して、丁寧に塗った。 この気持ち、あんたみたいな馬鹿にはわからないでしょう。 食堂前の廊下で、エリザベータはギルベルトを待った。待ちながら、遅いと思った。食堂から出た彼は、エリザベータに気づかなかったようだった。だから、その背中に自分から声をかけた。 「何見てたのよ監督生。何か目をつけられるようなことしたかしら?」 彼は、はじかれるように振り返った。 「別に卒業前に目つけてどうすんだよ。面倒くせぇ」 早口だった。 口紅を塗りなおしてよかった、とエリザベータは思った。 「けど、口紅は卒業まで我慢しとけよ、先生うるせぇんだし」 エリザベータの顔を見下ろし、それからすぐに目をそらした。やはり、気づいていた。塗りなおしておいてよかった、とまたエリザベータは思った。 彼の背は、男子として低くはないが、決して高くもないはずだった。しかし、目を見ようと顔を上げるといつも大きく感じる。横柄な態度が、 「いいじゃないの、ちょっとくらい。多めに見てよ」 「まぁ、今さら謹慎も何もねぇけどよ。つーか俺、別にそれ位で誰にも報告しねぇよ。わかんだろ」 もし、とエリザベータは思った。 私が男だったら、違ったかもしれない。 うざいなんて思わずに、一緒に女の子のスカートをめくっていたかもしれない。うまく隠して、AVの貸し借りだってしたかもしれない。喧嘩はきっとしただろう。口をきかない日もあったかもしれない。それでも、たまに肩を抱いて、二人で乱暴な口を利いて一緒に歩いていたかもしれない。 「医学部、決まったんでしょ?おめでとう」 なにを言っていいのかよく分からなかった。ただ、いいながら、今まで何度も頭をめぐらせた、もし、のいくつかを考えた。たとえば逆に彼が女の子だったら。やっぱり男勝りだろう。下手をすれば今よりも暴れていそうだ。きっと仲良くなって、一緒に化粧品や服を買いに行く。いやどうか。案外、ローデリヒを取り合ったかもしれない。 「ああ、ありがとう。お前も行きたいとこ決まったんだろ?おめでと」 「ありがとう」 彼女は真っ直ぐギルベルトの目を見ていた。 「なんか、珍しいじゃねぇか」 「何がよ」 だからなんか。そう彼が言うので、彼女は馬鹿じゃないの、と言った。わからないとしたら、やっぱり馬鹿だ。監督生で頭は切れるかもしれないけど、馬鹿だ。 私が、こんなに真剣なのに。 「それ、これから練習?」 エリザベータは、ギルベルトの腰に刺さっている二本のスティックを見て行った。 それが本題だった。 「ああ。ラストだしな。フランシスですら気合い入ってるぜ」 卒業公演のことだな、とエリザベータはあたりをつけた。 「どうせなら、ローデリヒさんとフルートとピアノで共演すればいいのに」 いつもの調子が戻ってきた。 「卒業公演二回出ろって言うのかよ。あいつ、絶対練習しつけぇからやだ」 「ローデリヒさんを粘着質みたいに言わないでよ!」 思わず、素で声を荒げた。そんな話をしたい訳じゃない。 「それ、ちょっといい?」 訊いた。 「は?何が」 「だから、そのスティックよ。駄目なら別にいいけど」 ギルベルトは目を丸めて不思議そうな顔をした。けれど、その対の棒を、すっと彼女の前に差し出した。彼女はその一本だけをとった。触って、眺め回して観察した。 似てる、と思った。欲しかったもの。あると思っていたもの。もっとも本物がこんな形じゃないのは知っている。けれどそれでも。 「そんなに珍しいもんか?」 彼は小ばかにしたように笑った。きっとエリザベータがの頭がそんな酷いことを間あげているとは知らないだろう。彼女は、その棒切れでギルベルトに切りかかった。驚いたギルベルトかもう一本のスティックでそれを受け止めると、カンとなった。その細い棒を握る手は大きかった。フェンシングをやっているせいなのか、繊細で指ではない。けれど長い指だった。 「何すんだ、まだ俺何もしてねぇだろ!やっぱり、お前は女じゃねぇ」 「何かする気だったの?」 「ちげぇよ!」 うまく表情が作れなかった。涙が出そうな顔をしていたら、と思うと不安で無意識に笑っていたかも入れない。ゆっくりとスティックを下げた。いまきっと、昔のように岸の不利をしてこの棒で彼を殴っても、きっと勝てはしないだろう。 早く何か言葉を紡がないと、喉がつまってしまいそうな気がした。 「卒業公演が終わったら、このスティック、一本くれない?」 よかった、すらすらと言えた。ギルベルトはいぶかしげに顔をゆがめた。 「一本って、なんで一本なんだよ。両方じゃねぇのかよ」 「両方貰っても、私ドラム叩けないもの」 けどよ、とギルベルトは詰まった。 「なんで」 「だから別に嫌ならいいわよ」 「もしかして、何か思入れとかあるの」 大事なものなのだろうか。誰かと思い出があるのかもしれない。急に胸に針が刺さるような気持ちになった。なら貰えない。しかし違ったようだった。 「なぁ」 ギルベルトは、エリザベータの質問に答えなかった。変りにいつもの笑みを消して、やけに真剣な表情で彼女を見下ろした。 「お前、髪伸ばしてからか?ずっとそれつけてるよな。その花の奴」 「変?」 「いや、そうじゃねぇけど」 彼は右手にスティックを握ったまま、ギルベルトの手が彼女の髪を触った。驚いた。彼が触れたのは、エリザベータの髪についた花の飾りだった。 「お前、これに思いれあんのか?」 無表情で彼は聞いた。 もし、もしも。エリザベータは思った。嗚咽をこらえるように喉が痛かった。 ただの一度でもギルベルトが無理やりにでも自分の腕を引っ張って抱きしめていたら。ローデリヒを見つめる前に好きだと、いつもはやかましいその口で静かに言っていたなら。もしかして、今ごろ、自分は彼の横で歩いていたかもしれない。 頭を叩いたり、叩かれたりしながら、一緒に並んで食堂の席に座ったかもしれない。時には頑丈なその肩にもたれ掛かって甘えたかもしれない。ひざの上に、彼の頭をのせて甘やかしたかもしれない。ふざけたことばかり言う口が真剣に好きだという声を何度も聞いたかもしれない。 エリザベータは「あるわ」と答えた。ギルベルトが花飾りをつかむ手に、グッと力が篭った。皮膚が引っ張られて、痛いくらいだった。彼は黙ってうつむいた。言うかもしれない、とエリザベータは思った。エリザベータは、おそらくギルベルトは自分のことがすきなんだろうと考えていた。周囲もそう思っている。けれど本当のところはわからない。彼は、今まで一度もそれを口にしたことがなかった。好きだ、とは言わなかった。 「どんな思い入れだよ」 少し、剣のある低い声で彼は言った。 「あんたに教えることじゃないわ」 彼は少しの間うつむいた。しかし結局、いつもの軽いそうに笑って「いいぜ、一本くらいやるよ」と言った。ゆっくり、髪飾りから手をはなした。結局、ギルベルトはエリザベータの花を引きちぎってはくれなかった。これと交換だ、とも言わなかった。だから、彼女はスティックを貰うことにしたのだ。 このへタレ!エリザベータはそう心の中で彼をののしった。けれど、もしギルベルトが彼女が思ったとおりのことを言ったとしたら、きっとものすごく戸惑った。きちんと、断れる自信はあったけれど、それでも。 しばらく、お互い片手に一本の棒をもったまま話をした。片手に棒切れをもったまま、殴りあわないなんて初めてだった。 「じゃぁ、私行くから」 「そうか、なんつーか、卒業おめでとう」 「あんたも、卒業おめでとう」 エリザベータはそういって踵を返した。本当は遠回りだった。 手に、スティックの感触がまだ残っている。エリザベータは、早足になりそうな自分を押さえた。胸が痛かった。体が馬鹿みたいに大きくなって、声だって低くなったのに、それだけは昔とかわらない偉そうな笑顔を思い出すと、不思議と収まってしまう。優しいと思った。だから彼が悪いのだ。優しけれ優しいほど悪い。それを知った。 ギル、ギルベルト。心の中で呼んだ。じゃぁね、たぶん、好きだった。 |