時計は23時を回っている。湿気た煙草にジッポで火をつけた。それは、ニューヨークが禁煙の街として知られる前に、アメリカから貰ったものだった。近頃では、喫煙者の肩身は狭く、フランスもあまり吸わなくなっていたが、気晴らしに吸ってみると、久々の味に美味いと感じた。彼の書斎にはズブロッカの、独特の臭いが広がっていた。ワインを開ける気分ではなかった。デスクには、書類が散乱している。彼は椅子の背に思い切りもたれかかり、また瓶に直接口をつけて酒をのどに流した。食道と胃が焼けて、熱くなる感覚を何度も味わった。ドンと、音をたてて瓶をデスクの上に置き、そのままデスクに腕をついて、両手で顔を覆った。怒りなのか、憤りなのか、悲しみなのか、よく分からない感情が酒の力も借りて、彼の体を駆け巡っていた。それらが、疲労となって血と肉に溜まっていく。苛立ち交じりに、肩手は顔を覆ったまま頭をかき、そのまま髪の一部を結んでいたゴムを解いた。まだ酩酊には遠い。出来れば何も考えず眠りたかったが、それも出来なかった。俯く彼の視線の先には、書きかけの手紙があった。それを見て、酷くみじめな気分になった。以前、誰だったかに指摘されたのかも忘れたが、自身に、躁鬱の気があるのを自覚しながら、彼はまた酒と煙草を交互に口に運んだ。体が酷く熱かった。

(最初は何時だ。何が始まりだ)

ガラ、と2番目の引き出しを開けた。そこには、本や、ファイルの他に、ガーゼがいくつか詰まった蓋のないケースが入っていた。そのガーゼは包帯止めに使われる黄ばんだマスキングテープがついていて、変色した血を吸い、固まっている。フランスは声を出さずに笑った。殴られた時についた傷とそこから出た血、それを塞いでいたガーゼ。フランスを”san of a bitch!”と罵り、殴って蹴り飛ばした張本人は、海の向こう側に、しかしそう遠くはない所にいた。彼はそこにあった、ガーゼのうちの一つを、優しげに、愛おしそうにそっと指にはさんで一枚とりあげた。まだ残る煙草を灰皿に置き、それを、両手の指で撫でるように持ち、一瞬息を飲んで見つめた。そして、彼はそれを頬に寄せ、目をつぶった。自分の血がついたガーゼからは奇妙な匂いがした。それから、この布がイギリスの傷についていたものだったら、もっといいのに、と思った。その想像は、震えるほどの、一種の歓喜をもたらすものとして、彼の中をかけ回った。まるで、全身の皮膚を酷く軽く触れられ続けているような、そんな感覚だった。
フランスは思った。

お前は、殴られた後に、自分の身についた痣に唇を寄せる感覚を知っているだろうか。
俺自身が、そうしていると想像するだろうか。
俺が、お前を殴り、殴られ、それから勃起するような、酷い夢想をするのを、考えたことがあるだろうか。
少しでも、俺を思ってくれるだろうか。
 彼は、そのとうに日がたち汚くなったガーゼに、まるで初めて赤子の額にするような、キスをすると、取り出し時と同じように、そっとそれをしまった。
 急に口寂しくなり、また一本、煙草に火をつけた。先ほどよりも、肺に染みわたるその煙を美味いと感じた。味は甘く、潮のような不思議な香りのするズブロッカをまた飲む。ウォッカの中でもかなりアルコール度数の高い酒は、ただ彼の体を熱くするだけだった。
声が聞きたい、と思って机に放り投げたままの携帯電話にふれ、彼の番号を呼び出した。しかしながら、とうの昔に着信を拒否されたそれが、繋がることはない。仕事用の電話であればつながるかもしれないが――いや、繋がるだろう――それでもフランスはそれを試す気にはならず、ただ表示された名前と番号を見つめた。
胃と、心臓が酷く痛い。
彼は画面を見つめながらアルコールですこし鈍くなった頭で、その名前の持主について考えた。

アメリカなどが、よくこう言う。
「イギリスとフランスは、偉そうなところだけは本当にそっくりだ」
 当然だ。偉そうなのではなく、現実に正しく我らは偉大なのだ。とフランスは思う。現代において力をなくし、衰退しながら尚と、この傲慢を笑うなら笑うがいい。1500年近く――刃の上を駆け抜けてきた。自負がある。たとえ断罪のごとく、多くを失ってもフランスが、今なお闇の中でその爪を研ぐのをやめないように、彼の牙もまたその灼熱をなくすことはない。覇者の誇りと奢りを捨てるのは滅びる時だ。
そう、そうして彼は、失敗した外交の一つとして数えられるころもある97年の香港返還の際すらほとんど、堂々としてその地をさったのだ。その牙をむかずとも、彼の内にある猛獣が眠るにつくのはまだ遠い。そして、フランスは多くをなくし、尚その高慢さでもって立ち上がり、顔を上げる様を、確かに美しいと思ったのだ。
フランスが美しいと思ったのは、ただ紳士としてふるまい、ルールに支配されたイギリスではない。紅茶を飲む仕草でも、刺繍を縫う指でもない。己と同じく、その黒炭よりも黒く汚れた腹のうちに、ギーガーの絵のような怪獣か、野生の獣が彼のうちに住んでいるのを知っている。それを彼がその苛烈さと理性で持って、飼いならすその様に震えるのだ。
そう、2年前だ、と彼は回想する。もし、今の地図が塗り替わったその後の100年を考える酷く臭う話――これが上司であれば密談といってもいい――を彼の家でした後だ。「季節だから」と言ってイギリスは彼が誇る、花と草、芝生、邸宅、門、その配置や高さ一つ全て調和されたその庭を案内した。そして、「綺麗だろう」と言って、他を傲慢さで持って見下ろし道具とみなす目に柔らかい愛しさを宿し、その血に汚れた手で確かな優しさでもって、赤い薔薇に触れるその様こそを――美しいと、そう思ったのだ。
1000年を超えた知り合いだが、と彼は携帯電話の画面を見つめたまま懐古を続けた。
恐らくそう思うのは、こうして衰退をしつつあるからだ、と彼は冷静な頭で自覚した。未だ、信頼はしても信用はない。戦いの牙の味はこの体が最も知っている。中世と前近代において彼に対してあったのは、滅ぼしてやりたいと、その身に土の味を舐めさせ煉獄へとつき落としてやりたいという願いだ。叶うことならば、この己こそが。そして恐らく、それは彼も同じであるはずだった。
 ただそれが最早、今は実現されるべくもない。

 彼はまた携帯電話を放り投げた。今、この体に彼がつけた傷がないのを酷く寂しくおもってアルコールで熱くなった体を抱く。頭の中で、バン、と一つ銃声が鳴り響くのが聞こえた。
悪魔に落ちたファウストのように、彼を美しいと、口に出してという気は毛頭ない。もし、そうすれば、ファウストのごとく神の慈愛でもって悪魔に魂を奪われることなく最期は救われるのかもしれない。同じく、自身の身に巣食い始めたこのおかしな焦がれるような恋情だのを口にするつもりもなかったのだ。彼はその意味でフランスを向くことはないだろう、ということをフランスは知っていたからだ。
しかし。
ああ、とフランスは息をはいた。そうすると、煙草の匂いとズブロッカの強烈な香りが鼻をくすぐった。床を見つめ、右手で左の二の腕を握り、煙草を挟む左手で顔を覆った。  花を愛でる目が、刺繍を縫うのと同じ手が瞬時に固く握られ、自身を殴りつける時に感じる熱さ。昔と同じようにその生意気な男を地に伏せさせるために蹴りつける喜び。それを言えば、気持ち悪い、と彼はまた罵るだろう。それを快感だと思った。そうして、その肌を暴くことが出来ない相手に触れて、その眼が苛烈さでもって己に向かう恍惚。彼の肉を傷つけ、罵倒し罵倒される感覚が確かに、脳髄が震えるほどの悦びだったのだ。
 煙草の煙を吸うと、苦みが口の中に広がった。
もっと。と彼は思った。もっと酷くしたい。酷くされたい。襤褸のように扱われながら射精して、射精させたい。
 アルコールに焼けた喉に染みる煙は焦げるようだった。
 不思議だ、とフランスは頭の中で自嘲した。汚物にまみれながらなお、彼を美しいと感じた時のフランスの思いは、神々しく、神聖な「何か」だった。まるで処刑される時も毅然としたものを見る時の神聖さだった。
 その筈だった。
 しかし、今や、彼のマゾヒスティックな、若しくはサディスティックな願望がそれを邪魔する。
 あの緑の目をえぐり取って持ち帰りたい。この腕を、足を折られたい。その体に酷く優しく触れて中身をも暴きたい。自分の中身をさらしたい。罵る声が自身にだけむかれるのを感じていたい。
 もしも、それが叶うなら、きっと俺は幸福の中で死ねるだろう。
 彼はまたズブロッカを口に運んだ。甘い。俯き、煙草を吸う手で顔を負う彼は泣かなかった。ただ、流れない涙が目を赤くし、久しぶりの煙草と飲みなれない酒が喉を火のように焼いた。
 どうか、日の光が、この思いを焼いてくれれば。
 どうか、この身を焼きつくしてくれれば。
 何一つ焼きつくして消すことができない夜の中でフランスはそう思った。
 早く寝ようとしても眠れず、ならば仕事に打ち込もうと書斎にきても打ち込めずこの様だった。フランスは諦めたように、ガーゼが入っているのとは別の引き出しから、瓶入りの市販の睡眠薬を取り出すとそれを3錠、手に乗せまた、瓶から口をつけてズブロッカでそれを流し込んだ。
 緩慢な動作で立ち上がり、軽くよろけながらドアへを開けて、少し乱暴にそれを占めた。ふらふらと廊下を歩きながら、今はただ、ベッドの中で眠れることを祈っている。
 外は暗く。秋分を過ぎ、パリの夜明けはまだ遠い。