イギリスにとって、電話をするのには、勇気とそれから少しの忍耐が必要だった。しかし、フランスの携帯電話が震え、それを手にした彼の手は、いっそ電話ごと落としかねないほどに、打ち震えていた。驚愕に目が見開き、しばらくディスプレイに表示された名前から目を離せなかった。そうして、彼の手の中で携帯電話はしばらく震え、一度それは途切れた。フランスは、電話に出ることが出来なかった。だが、またすぐに、電話は震えだした。ディスプレイが光る。そこに、表示された名前は変わらない。今度は、少しだけ緊張感を覚えながらもその電話をとった。 「アロー?」 「俺だ。今話せるか?」 「隣でエレーヌが鳴いてるが、かまわねぇよ」 そうか、と言うと一瞬、彼は沈黙し、それから言った。 「話をつけたい」 きたか、とフランスは思った。 「何の話か、つーのはなし、だな」 「そうしたいのか?」 それに対する答えをフランスは持っていなかった。 「俺は正直疲れてる。今日もお前は律儀に手紙を送ってきたな。こういうことには、何も話さない方がいいこともあるんだろうが、少なくとも俺はこの生産性のない……いや、マイナスにしかならない状況がマシになれば、と思ってる」 イギリスは、声をそばだてて笑った。フランスも、俺はこんなにお前を愛してるだけなのに、とだけ言って笑った。日差しが熱く、彼の体を焼いた。乾いた空気が少しだけ喉にいた。 「明後日、そっちに仕事に行く。帰りはあけられるか」 「お前がそれを望むとあらば」 「なら明後日に。じゃぁな、お前がくたばって俺が楽になれることを祈ってるよ」 じゃぁな、とフランスが言うとイギリスはすぐに電話をきった。それから大きくため息をつき、ゴッと音をたてて頭を壁に打ってもたれかかった。携帯電話をスーツのポケットにしまい、それからすぐに彼は仕事に戻った。 明後日。夜のパリは寒かった。街のバーや酒場でワインを飲むこともなく、イギリスとフランスは、暗くなった夜の街をただ黙って歩いた。目的地は、フランスの家だった。 イギリスは、普段もこうして黙っていれば問題などないものを、と思ったが口には出さなかった。フランスが、扉の鍵を差し込んだとき、イギリスは初めて口を開いた。 「前も言ったかもしれないが、俺はお前の神経を疑ってる」 フランスは何も言わずに振り返り、イギリスの顔をみた。 「俺は、こんなストーカーじみた男の家にそれでも平気で入るお前の神経を疑うよ。もしも俺の部屋にびっちりお前の写真が貼ってあって――そのほとんどが、ベットベトだとしたら、お前どうする?」 イギリスは、眉をよせて嫌悪を表し、少し身を引いた。 「お前の目の前で、お前のそのご自慢のキッチンで全部焼きつくしてやるよ」 「それでこそ俺の愛する男だ」 フランスはそう声を出して笑い、「入れ」とイギリスを促した。後ろに立ったフランスは「このまま力づくで掘られるかもとか、考えなかったわけ?」と聞くと、彼は少しだけフランスを振り返って「タマ蹴りつぶしてやるよ。出生率が下がるかもな」と嘲った。 それは困るなと、言ってフランスはイギリスをキッチンの方へ案内した。彼に、テーブルにつくようにすすめ、自身は上着を脱ぐとイギリスに背を向けて、髪を一つにまとめ、椅子にかかっていたブルーのエプロンをつけて、冷蔵庫に向かった。 「何を飲む?」 「紅茶を。なければコーヒーでも構わない」 「紅茶を出すよ」 イギリスは、久々にその部屋に訪れたが、存外、以前知った風景と変わらないのに少し安心した。本当に、彼が言うように写真でも貼ってあってもし、それに自慰をした跡があったりしたら――その場で叫び、発狂しただろうなと思う。もっとも、彼の部屋には本当にそういうものがあるのかもしなれない、と考えてイギリスはその想像を打ち消した。耐えきれない。 ケトルで湯を沸かす横で、「食うだろ」と言ってバケットを切り、サンドイッチの用意を始めた。イギリスは、一応それに礼をいった。 「何も入れるなよ」 「入れねぇよ。せいぜい愛くらいだね」 気持ち悪い、とイギリスは彼の後姿を見ながら言った。 「俺は、お前のその愛とやらを疑ってる。今日問題にしたいのは、おめぇの変態でも性癖でもない。お前は本当におれのことが好きなのか?」 「まるで、はじめてのときの処女みたいな質問だな」 イギリスはほざけ、と言った。 「アメリカがこの間俺に電話してきたよ。それで大体、聞いたが、それでも俺には疑わしい」 「何がだ?俺が頭がおかしいってことか?本当は今持ってるこの包丁でお前を刺したいと思ってることが?そうでなかったら指されるか、死んだ後の死体で――」 「それだ、それがおかしいって言ってるんだ」 フランスは、振り返らずにレタスを千切っていた。ケトルはそろそろいい音をたてたので、フランスはガスを止めた。戸棚から、彼が気に入りそうな種類の紅茶を選び出す。 「お前は俺が好きなんじゃなくて、端に、俺から罵られたいだけなんじゃねぇのか?お前が変態なのは1000年の付き合いで良く知ってるからな。単に、俺で、お前の性癖を満たしたいだけなんじゃねーのかって思ってる」 「俺は――」 「それが気持ちわりぃんだよ!」 フランスが紅茶を彼の前に差し出そうとした瞬間、イギリスは絶叫した。フランスが少しだけ驚いて彼の目を見るとそこには、一種の怯えの色が映っていた。 「その眼だ。罵られようとか、切り刻もうだとか……期待してる眼だ。俺はお前の性癖の道具じゃねぇ!」 そこまで彼が言いきるのをまって、フランスはやっと紅茶をテーブルに置いた。彼は、ただ、黙って話を聞いていた。 「……アメリカは、俺がお前を好きだっていって信じたぞ」 フランスは、またキッチンへ戻ってサンドイッチ作りの続きを始めた。薄くスライスして蒸した鶏肉に塩コショウをかけて冷やしたものを冷蔵庫から取り出すと、場にそぐわない香りが室内に広がった。 「アメリカが信じたとしたらそれはお前が素か、少なくともあいつにたいして変態要素を出さなかったからだろ」 お前は、とイギリスはつづけた。 「もっと酷いのがいい?酷くされたい。心に生えた黒い羽根だ?ふざけるな。むしり取れそんなもんは。異常と変態で鎧って逃げやがって!」 フランスが皿に二人分のサンドイッチをのせて彼の方へ振り向いた。激昂しているイギリスに対し、フランスは無表情だった。 「素のひとつも見せねぇで愛してる?串刺し?信じられるか、愛だとかほざくならなんでそんなこと言える?俺にはそれが理解できない。俺はホモでもゲイでもねぇんだ、ぶっかけたいって言われても体はかねぇよ、お前がちったぁ感情見せりゃぁ心は多少でも動いたかもしれねぇのにこの不能が!」 そこまで言いきって、はじめて、その存在に気づいたように、イギリスはまだ冷めていない紅茶に口をつけた。 フランスは黙ってうつむき、テーブルに皿を置いてエプロンを脱ぎ、それから髪をほどいて激しく頭をかきむしった。 「……無理だ」 つぶやきよりも、小さな、イギリスがきちんと彼の話を聞こうとしていなければ聞こえない程、小さな声でフランスは言った。 何が、とイギリスが問うと「無理に決まってるだろ!」とフランスは今日初めて怒鳴り声をあげた。 「素でお前が好きだなんて言えねぇだろ」 「だからなん」 「だってお前は絶対に俺を好きにはならないのに!」 ほとんど崩れるようにしてフランスはテーブルに腕を付き、顔を覆った。紅茶を片手にもったままイギリスは殆ど気圧されたようにして目を見開いた。 「そんなのわからな」 「わからない?ふざけてるのはお前だイギリス。わかりきってる、そんなことはわかりきってる!」 「だったら」 イギリスは紅茶をおいて言葉を切った。 「ならせめて今みたいに本気ぶつけてたらせめて……俺もお前相手でも誠実な断り方ができただろ、バイ相手に好かれてどうしょうもできねぇ俺の立場はどうなる、どうやってもまっとうにいかねぇつうならせめて真摯に」 フランスは向こうに座るイギリスの胸倉をつかんで頭を垂れた。イギリスはその後頭部を、ほとんど呆然として見下ろした。 「そんなのはお前の勝手な傲慢だ!どっちにしろ俺は惨めには変わりないじゃねぇか……!」 指が赤くなるほどの力で服をつかむ、フランスの肩が小刻みに震えているのにイギリスのをただ見やった。指先が、服が生ぬるく濡れた。フランスが鳴いているのに、その時はじめて気がついた。 「……言っただろ。好きだけど、酷くしたい、酷くされたいって思うもんだって。お前は否定するけどお前が好きだからこそ俺は、酷くされたいんだ。そうすればまだお前に触れられる。変にそうやって憐れまれるよりよっぽどましだ。黒い羽根があれば、まだもう少しだけむこう側に飛べるんだ」 だんだん、つかむ手の力が弱くなるのを感じながら、イギリスは、フランスを見ていられなくなって目をそらした。 「だからって、俺たちはこれから先、永遠にこんな意味のないやりとりを繰り返すのか?俺が折れるか慣れるか、お前が諦めて俺への気持ちを消すまで……?」 フランスは、涙が乾ききらない顔をあげて、イギリスへ笑いかけた。 「お前が、少しでも現状をマシに、どうにかしようとしてくてるのは本当に嬉しいよ。理解しようとしてくれたのもこうして涙が出るくらいに嬉しい。でも、お前には、絶対、俺の気持ちはわからない。理解出来ないんだよ」 フランスは再び俯いた。イギリスは色のない声で、フランス、と呼びかけた。 「顔あげろ」 イギリスは、フランスの髪を無造作に撫でると、顔を近づけてから目をつぶって、彼の唇に口づけた。ほんの2、3秒、そうして触れてから彼は、顔と手を離した。 「俺は、娼婦じゃねぇからな、唇だけはくれてやる」 フランスは、老人のように笑って彼を見た。 「本当に、お前は酷いサディストだ」 座れよ、とイギリスが言って初めてフランスはイギリスのシャツを掴む手を離し、彼の向かい側に座って顔を覆って声を出さずに泣いた。 イギリスは、もらうぞ、と言って、目の前のサーモンのサンドイッチに口をつけた。食べながら言った。 「空しい……。なんで俺が悲しい思いをしなきゃいけねぇんだ」 「どうやったってどうにもならないこと解っててふるんだ。俺もお前も救われない、そりゃ悲しいさ」 「それだけ言う割にずっと逃げ回ってたくせに」 イギリスはうなだれる彼の様子をみながら、彼の手料理を食べ続けた。 「もう今日は下手な気をだすなよ。俺が神経衰弱で死ぬ前に寝首をかきそうだ」 「お前ももう充分におかしいよ。きっと羽根が生えてるね」 「生えたところで俺はお前のようには絶対にならない」 食べないのか、とイギリスはフランスに聞いたが彼は返事をしなかった。代わりに、顔をあげないまま、「遅いから泊まっていくだろう、ベッドを貸すよ。俺はソファで寝る、安心しろ。できることなら寝首をかかれるか、かきたいね。眠ってるお前の体をまさぐってその体に傷をつけられたらどんだけ幸せかと思うよ。それくらいに、好きなんだ」と言った。 イギリスはそれからただ黙って食事をする傍らで、フランスは静かに泣いた。それからしばらくして、イギリスが食べ終わってからもフランスは自分の料理に手をつけなかった。 夜がとうに向こう側に行って、フランスはリヴィングのソファに身を横たえながら、腕で顔を隠しながら酷い気持ちの中で声に出さずに唸りつづけた。 お前に酷く罵られたい。冷たい瞳でみられたい。 肋骨を蹴ってその骨が折れる感触が知りたい。 犬みたいに飼われたい。監禁して鎖につなぎたい。 かみついてその血を舐めたい。罵倒されてそのまま射精したい。お前に。お前に。 お前に好かれたい。どれ程みじめでも。羽根が落とされても。 それから数週間後の世界会議。 今日も会議室でその怒号は響いた。 “Don’t be ridiculous, bloody bastard!” アメリカが「おっさん達いい加減にしなよ!」と言いながらイギリスをはがいじめにしたが、場を収める効果はなかった。 「どれだけ罵ったっていいよ。つーかもっと言ってちょうだい」 「死ねよ」 イギリスは頭に血をのぼらせて彼の腹にその拳を叩きこんだが、フランスはまるでゾンビのようにのそりと起き上って不気味に笑った。 「ああいいね、ついでにその細い骨ばった腰をだかせてくれるともっと……」 「黙れ」 「まぁ、俺なんだかんだいってお前のこと諦めてないからお前が諦めて」 「何をだ?!」 「俺が素でお前にぶつかれば心が動くかもしれないんだろう?大丈夫、1000年先でもお前を愛してるから、それくらいかければきっと。お前に言われて思い出したんだよ。フランスは負けてからが真の勝負だって」 「なんでポジティブなんだよ……」 「お前に言われて思い出したんだ。フランスは何時だって負けてからが真の勝負なのさ」 ひく、とイギリスの顔が青ざめた。 「ああいいなぁ、その顔。今晩はその顔を思い出しながら自」 アメリカの顔が引きつって、ドイツがいい加減にしろフランスを怒鳴りつけた。 「大丈夫だって、イギリス。一緒に黒い羽根で飛びまわろう。お前に羽根が生えるまでお兄さんとことん諦めないよ」 「諦めろよそこは……人生無駄遣いしてんじゃねぇ」 羽根?と誰かが聞いたが、二人は聞いていなかった。イギリスは、諦めるのも折れるのも嫌だが、これに慣れるのも酷くいやだ、と思った。 fin. |