彼らの姿を見るよりも先に、怒声が聞こえた。それから殴り合う音と、誰かが止めに入る声。交わされる罵声は汚いことこの上なく、廊下にも響くその騒音に、部屋の前を通った幾人かは思わず、軽く耳を覆った。コーヒーの入った紙コップを持ったまま、日本とアメリカは思わず顔を見合わせたが、それでも構わず足を進めた。「またやってるよ、全く元気だね」とアメリカが言ってドアノブを捻るのに、日本は「そのようで」と苦笑してその後に続いた。そこは、某国国会議事堂休憩室。

「死ねよこのクソ変態気持ち悪ぃ!」

中に入った瞬間に聞こえた、鼓膜を突き破るような大声に思わず日本とアメリカはコーヒーを持っていない左手で片側の耳を覆った。どうやらいつにもまして、ドーバー海峡は天気が悪いらしい。それからイギリスに腹を蹴られて、フランスが派手に飛ばされ、その衝撃で椅子が数脚、吹き飛んだ。
 なお暴れようとするイギリスをドイツが後ろかはがいじめにして止めている。彼のスーツはフランスと同じように汚れ、ネクタイは歪み、シャツには血のシミがついていた。イギリスは荒く肩で息をしながら、刃物のような目つきで転がるフランスを睨んでいた。
 スペインが、支えるようにフランスの傍にしゃがみこみ「大丈夫なん?」と聞く。フランスは、ただ首を横に振り、それから右手で切れた唇をぬぐい、こちらも額から血を流しているイギリスの顔を見上げた。イギリスは、ドイツが「落ち着け!」と声を張り上げる以上の声でなおもフランスを、自身を止めるドイツをも罵倒し続けていた。ヴェネチアーノやロマーノ、それから何人かが少し怯えるようにその光景を見ている。どうしたのか、とアメリカが横で傍観者を決め込んでいるロシアに尋ねると「多分、そのうちわかるよ」と耳打ちした。
「イギリス」
 抑揚がない声を出すフランスは、イギリスを見るその眼にも表情は感じられなかった。
「もっと」
 イギリスの喉がひくりと動き、ドイツの表情が、やめてくれと云った風にひきつった。イギリスは目を大きく広げ再びその口を開けた。

“Shut up, you bloody son of a bitch! Go back your home, and never be a real snake fucker!”

 怒号に周りの空気が糸を張ったように緊張した。見かねたのか、アメリカが”Hey, hey, calm down! ”と叫んだが、彼はなおも続けた。
「このクソ野郎、気持ち悪いんだよ!何万回言われようが、俺はてめぇの汚いケツに突っ込む気も、蛙のブツにも突っ込まれる気もねぇんだよゴミが!俺でマスかくんじゃねぇ!」
 この段に来て、日本とアメリカはなんとなく状況を察した。ロシアが、ね、とアメリカに耳打ちしたが、アメリカはそれを無視した。しかし、周りの心情を無視するかのように、フランスはまたイギリスに話しかけた。
「もっと罵れよ、もっと来いよ。殴れよ、蹴ってくれよ。それだけでイけそうだ」
 青筋を立てるイギリスとは裏腹に、ごくわずかにフランスは笑って続けた。
「罵られた分だけ、罵ってやる。お前が俺に傷をつけた分だけ、俺はお前に傷を残してやる」
 変態、マゾヒスト。そう罵るイギリスの首に、位置が離れているにもかかわらず、フランスはそのまま指をかけて締めかねないように見えた。フランスが、かき回したい、入れたい、入れられたいんだ、とうわ言のように、しかし、まるで母親が子供いい聞かせるように言うのに、アメリカは少しゾッとした。
 埒が開かないと思ったドイツが、スペインに「フランスをどこかへ連れて行け」といい、スペインが彼を無理やり立たせた。それでもフランスはまだ何事か言っていたが、イギリスは息を切らしながらも、ドイツに「もういい、大丈夫だ」といったので、ドイツはイギリスを離す。イギリスは小さく「すまない」とドイツに謝罪した。その間もフランスからねっとりとした視線を向けられ続けたイギリスは、汚物というよりも仇を見る目で彼をみた。

 彼が部屋から出て行くのをみやると、イギリスはスーツとネクタイを直した。「皆、騒がせて悪かった」と改めて謝罪するとドイツが、「とんだ災難だったな」と彼を慰めた。お前らもな、と漸く彼は笑った。
「手当はしなくても大丈夫?イギリス君」
 ロシアはよけておいた彼の分の紅茶を差し出した。
「いらねーよ。舐めときゃ治る」
 何人かで手分けして室内を元の状態に直しながら、イギリスはそれを受取って口に含んだ。
「廊下まで声が聞こえるから何事かと思ったよ。第100次英仏100年戦争勃発かってね。どうやら本当にそのようだね。お疲れさま。俺も流石にあれは気分が悪かった」
 アメリカに慰められたのに気づき、イギリスはその、太い眉を跳ね上げてそれから、顔を覆ってため息をついた。酷く憔悴している様子だった。
「ここ最近、ずっとアイツああなんだ。最初、EUの会議が終わった後の飲み会でいきなり俺を罵れよとか言い出した時はなんだとうとう、本当にコイツ頭おかしくなったのか?適当にからかって流したんだよ。そりゃある程度殴ったがな、そんなのいつものことだ。けどな、お前でイくだの、イきそうだの、鞭でぶたれて家畜扱いされたいだの、したいだの会うたび言われてみろ。気が狂う。何回止めろつっても聞きやしない」
  もと通りになった部屋で椅子に皆座り、疲れた声を出すイギリスの話を淡々と聞いた。欧州の面々は鎮痛な面持ちだった。今回だけの話ではないのだ、とドイツが教えてくれた。
「むしろ、俺はそれでもお前はよく我慢できるな感心するぞ。たしかそんな内容のメールまで送っていたんだろう?アイツは」
「良く知ってるな、ドイツ」
「欧州会議で毎度そんなことやられても敵わんからな。直接フランスにやめろと言ったらそういう話を聞かされた」
 アメリカが、それは気持ち悪いねと容赦のない感想を漏らした。
「会議になったら顔を合わさねぇわけにもいかねぇし、別に毎回毎回そればっか話してるわけでもねぇし……つって、あいつの変態度を甘く見たのが敗因だったな」
「でも俺が兄ちゃんから聞いたんだけど兄ちゃんは本当にイギリスのこと愛し」
「全部いったら泣かすぞイタリア北。愛してるだのなんだの、あんなマゾなのかサドなのかよくわかんねぇ病気の豚にああもう気持ち悪い吐きそうだ」
 イタリアはその一言にすでに泣きそうになったのに日本が苦笑して慰めた。
「君バイだっけ?」
「同性愛に理解はある方だと思うが、俺は髪の毛一本、爪の垢まで異性愛者だよアメリカ。他人に迷惑をかける変態に対する理解は欠片もない」
そりゃなおさら酷い、とアメリカは肩をすくめた。
「まるで、クリスマスとエイプリルフールのいやがらせが、いっぺんに、イギリス君一人へ集中してるみたいだね」
「ロシア、本当のことかもしれんが、やめてくれ。あのカエル、豚みたいに輪切りにされたいだの、したいだの、毎晩オナ……ああも……っ!」
 なんで俺が憤死しそうにならなきゃいけねぇんだ、と言ってイギリスは机に突っ伏した。
 訴えなよ、ストーカー容疑でもなんでも。とアメリカが珍しく、至極真面目腐っていった。
「ヒーローなら助けてくれよ」
「……俺に助けを求めるなんて本当にまいってるんだね君」
「うるせぇよ……。ああ会議まだ続くのか?俺、あいつの顔見たら殺しそうつーか殺していいか。もういいだろ。EUには俺とドイツがいればいいだろ。いらねえよ。あんな欧州の恥さらし……土に変えせ。肥料にしろ。じゃなきゃ誰かサナトリウムにぶちこめ、二度と出られねぇように」
 ささくれだっているイギリスを見て、日本がふと思いついたように「イギリスさん」と口を開いた。
「私は、イギリスさんほどフランスさんとお付き合いが長くないので、よくはしりませんが、本当にフランスさんがその……イギリスさんに罵倒されるのがお好きなのだとしたら、先ほどのような口調こそが、余計にフランスさんを変態化させているのではないでしょうか」  そうなんだがな、とイギリスが答える代りにドイツが胃を抑えながら答えた。
「そう進言して、まっとうな議題以外、イギリスが全て無視をするなり流すなりしたこともあったんだが……。そのたびに、奴がその、すまない、俺の口からはもう言えん」
「ドイツの家にあったVIDEOみたいなこと言ってたよね!」
「黙れイタリア!コホン、だがこのままでは欧州どころか、世界の迷惑だ」
  場が痛く沈黙した。
しばらくして、アメリカは、「イギリス、俺の51番目の州になるかい?そしたら守ってあげるよ」とジョークをいった。彼なりの励ましだったのかもしれない。イギリスは「結構だ。それでも引っ越せるなら、とうに引っ越したい気分だがな」と返した。
ロシアが、「さて、休まらなかったけど休憩は終わり。そろそろ会議の時間だよ」と言ったので、皆立ち上がった。
 心身共に疲弊しているが、それでも立ち上がったイギリスを、日本が「あとでお茶でもご一緒しましょう。私がおごります」と慰めた。