「俺の時計がどこにあるか知らないか」
「さてな。ナイトテーブルの上じゃないか?」
 鏡の前で、ディオールオムの銀色掛ったスーツを着込みながら、フランスはそう答えた。彼とは対照的に、黒のスーツにフロックコートを着込んだイギリスは、あった、といって革ベルトの腕時計を腕に巻く。ジャケットの下に、濃い茶色のベストを着ている。スリーピースのスタイルは、彼のトレードマークの一つと言えた。皮靴を鳴らしながら、イギリスもまた鏡に近寄って、フランスの横で白いポケットチーフを整えた。
「似合うか?」
「似合ってるんじゃねぇのか」
 碌に見てもない癖に、とフランスはアーサーの方を振り向いて笑った。イギリスは鏡から目を下にそらし、皮肉気に、ハん、と鼻をならして「どの服を着ようがお前だったらそう変わらねぇよ」と言った。「俺なら何でも似合うってか」とフランシスがまた訪ねると、今度もアーサーは鼻を鳴らすだけだった。ホテルの部屋を出る前に、軽いキスをすると、二人は、少しずれたリズムで革靴を鳴らしながら外へ出た。  ロビーの前で待っている運転手に、二人は手をあげて挨拶をすると、すぐに車に乗り込んだ。車内で、二人は何事も、目線も交わさずにただ沈黙していた。
 パーティーの貸し会場はロンドンの郊外にある小さな屋敷だった。昼間であれば、その美しい緑の芝生や、妖精が済んでいそうな睡蓮の池を見ることができただろう。しかし、その夜は雨こそ降らないものの、重たい雲が空を覆っていて微かに花を照らす月さえも見ることは叶わなかった。
 車から降りると、二人はやはり無表情のまま歩みを進めた。
 使用人が開けたドアをくぐり、屋敷に踏み入った途端、とたんに豪奢で華やかな室内楽の演奏が聞こえた。二人は、無表情から、口元を微かに上げるだけの笑みに切り替えた。その日の招待主に、挨拶をすると女性は連れていないのか、というので、実はこれからなんです、と言うと、それぞれの社交のために別れ、イギリスは、他の紳士たちと葉巻を銜えながらポーカーに興じ、フランスはダンス会場へと向かいひと組の黒髪の母娘に声を掛けた。淑女の手に慣れた仕草でキスをする。彼は遊び人で知られていたが、それでも彼女たちは興味をもったらしく、何故女性連れでないのか、とか、想像より若いなどと色々な事を聞いた。フォーマルな場では珍しい、美しくドレスアップした二人の健康的な笑顔が喜ばしかった。娘の方が、一緒に連れ立った、イギリスに興味をもったらしく、何故彼と一緒に来たのかと聞かれたのでフランスは少し逡巡して「俺の方がいい男なんですが、まぁお嬢さんに免じていいでしょう」と前置きしたうえで、正直に答えた。
「実は、ホテルの部屋が一緒でして」
 それを聞くと、質問した令嬢の母親である夫人は驚いたように「まぁ!」と声を上げた。

「それじゃぁ、ゲイみたいだわ!」
「貴女には俺がそう見える?」

 フランシスは、低い声で笑った。そうすると赤いドレスを着た彼女は困ったように首を振った。

「なにかっていうと、直ぐにイギリスとフランスっていうのはワンセットにされるんです。困ったものだ」
「ではお二人は仲が良ろしい?」
「さて、それもどうかな。ただ、太古の昔に比べて英仏間の中は良好ですよ。たまには激しく取っ組み合うこともありますが」
 あら怖い、と彼女達が綺麗に笑ったので、フランシスは改めてシャンパンを勧めた。
「それにしても、皆、お国の方々は皆様、「フランス」さんや「イギリス」さんのように素敵な御容姿をなさっているのかしら?」
「さてどうでしょう。貴方が、どう思うかは知らないが、あそこにいる眼鏡の彼はアメリカです。少々、ガキっぽいが悪いやつじゃない」

 あら、と一番年配の婦人が息子を見るような目つきでアルフレッドを見た。

「あの子、踊れる?」
「ええ、その筈です。よろしければ踊ってみては?あれでも実は結構な年なんですよ」

 300は超える爺さんです、とは言わなかった。じゃぁ、踊ってこようかしら、というので、彼は「では、お譲様。一曲、俺と踊っていただいても?」と言って姿勢を低めて笑った。まだ20を過ぎたばかりの彼女は、少し照れたようにその手をとった。たぶん、この娘には彼氏がいるんだろうな、とフランシスは思ったが、それもまたよしとした。リズムに合わせて腕を引き、ステップを踏む。弦楽器の音色が体に響く。その波動を体に受け入れながら、フランシスはチラ、と若いサンディー・ヘアの男と一緒に未だカードとチップで戯れる相方に視線をやった。ポーカー、セブンブリッジ、ブラックジャック、はたまたナポレオン。いかさまも含めて、そういう人間とやり取りをするゲームは彼の得意のうちだ。心理戦で相手を追い込むのに無上の楽しみを見出す。白い手袋の指先が、笑った。パーティなのに、しばらく踊る気はないのだろう。男たちの中心で葉巻をくわえる姿は、まさに英国貴族的だった。
 白い肌をした娘は、フランシスを、憧れを含んだ目線で見上げている。その眼を見つめるために、彼は視線を戻した。こいつは、いい娘だ、もっといい女に育つだろう、と思いながら、学生?と聞けば、開発学を学んでいる、と言った。出来ればあまり擦れないでほしいな、と祈りながらフランシスは、それはいい、と答えた。母国の英語から、フランス語に切り替えて一生懸命話そうとするのにも共感を覚えた。出来るだけ優しい笑みを浮かべて、恋人はいる?と尋ねると、照れくさそうに、ええ、と答えた。
「そいつは羨ましい、俺のよりいい男?」  彼女は踊りながら目を伏せた。
「いえ、あなたに比べればきっとまだまだなんでしょうね」
 ピアノの音が跳ね上がる。彼はゆったりとターンした。
「でも貴女は彼が好き」
「そうね」

 フランシスは小さく声に出して笑った。口には出さす、俺も年だな、と思った。

「あなたよりも素敵な紳士になるって信じてるわ」
「お嬢さんが選んだ人なら大丈夫そうだね」

 曲が終わって、フランシスは彼女の手にキスをした。丁寧にセットされた髪の毛を撫でたくなったが、それは止めた。彼女の父親の気持ちを慮りながら、「では、また」と言って上品に礼をした。彼女の母親と踊っていたアルフレッドが、こっちを振り向いたので、軽く手をあげて、投げキッスをすると、彼は露骨に嫌そうな顔をした。苦笑いでそれに答えフランシスはダンス会場を去った。笑顔を振りまきながら、人波を避け、時に杯を仰ぎながら暗い場所へと進んでいく。音楽がどんどん遠のいていった。殆ど人気の無くなった木製の廊下を歩き、角を曲がると、壁にもたれて腕を組むアーサーがフランシスを睨んだ。
「行儀が悪いぜ、ノーティー・ボーイ」
「うるせぇな、ドアの向こうでは何をやってもいいんだよ。誰も見てないならな」

 広い屋敷の暗い死角の一つをさして、彼はそう言った。

「ここはドアの向こう側じゃないぜ」
「だったら?」

 二人は睨む目を交差させた。直後、互いに頭と腰を抱いて口をむさぼりあった。口の中は、シャンパンとワインと煙草の煙の味がした。そのまま後ろに下がって、アーサーはもたれていた壁に二人分の体重を預けて目をつぶった。フランスの唇が、首筋に映った時、アーサーは静かな声で聞いた。
「……あの令嬢は?」
 フランスは目線だけを上にあげて鼻で笑った。
「気になる?」
 今度はイギリスが鼻で笑った。まるで、煙草を挟むように、彼はフランスの髪を指で解いた。
「あれはただの若くて可愛いイギリス人だよ。オックスフォードに通っていて、国連職員を目指す彼氏がいる」
 ふぅん、とイギリスは無表情を作った。眼だけが熱かった。フランスが、服を崩さないように気をつけて、跡がつかないように首を噛むと、そこからダンヒルの香水の香りがした。イギリスは、少し震えながら、右足をフランスの股に挟んだ。フランスはその刺激をやり過ごしながら、「お前こそ」と言った。

「賭場でずっと男に触られてただろう」
「そう見えたか?」
 二人は、ネクタイをほどいてベルトを外したい衝動に駆られたが、それを堪えてもう一度、固く身をよせて息を切ってキスをした。互いの舌が、まるで服の中に侵入して、体を舐めているような感覚が二人を襲った。息をするために微かに放れるたびに、また口をひらした。
「お前の耳に何か囁いてた」
 口の中から、体が熱くなるのを感じるのをイギリスは感じた。
「自分がするセクハラ棚にあげてそういうか?あれはこの夏に大学を卒業して今は父親の秘書をしてる若い紳士だよ。来年に結婚するらしい」
 へぇ、とフランスは表情を消した。息が荒い。しばらく何も言わずにそのままキスを交わして、体に溜まる熱が最高潮に達した時に、二人は口を離した。お互い、背中を抱いたまま息を整えた。少し濡れた目でお互いを見やりながら、どちらともなく、沈黙を破った。

「また、あとで」
「ああ、あとで」

 イギリスは、振り返らずに明かりのする方へと歩いていった。フランスは、まだ荒く残る呼吸を整えながら壁にもたれて、長い指を持つ手で顔を覆った。自分のおさまらない体の熱。赤く薄色づいた彼の耳から首筋が、瞼の裏に映った。離れ時に手袋越しに触れた手の感触。フランスは、低い、癖のある声を殺して、クツクツと笑った。クリスマスの音楽が遠くに聞こえたので、微かに鼻歌を歌った。