フランスから電話があった。
「ちょっと気分が憂鬱になって。威勢のいいお前の声が聞きたくなった」
 受話器越しに、微かに笑う気配を感じた。俺は、軽い気分で「お前がそんなことうぃうなんて、本当に参ってるんだな」と皮肉を言った。ソファに座りなおして、ペラペラとペーパーブックをめくった。まるで分析医になって気分だった。子供のごっこ遊びのようで楽しい。
「何か嫌なことでもあったか?振られたとか」
「なんでそうなるんだ」
 今朝、寝ちがえをしたのかどうにも首筋がいたい。部屋を明るくしようと思って、カーテンを開けた。日差しが眩しい。眼が痛いくらいだ。庭は今日も緑色をしている。そろそろ、芝生をかるべきだろうかと思った。
「別に、特に理由はねえよ」
「それこそワインを飲めばいいだろう」
「もう飲んでる」
 ふうん、と俺は気のない返事をした。首を回しながら、ソファにもたれたら。肩も張っている。腹が減った。けれど、飯を作る気力がなかったので動かなかった。
「酒で解決できないなら電話したって無駄だろう」
 TVをつけた。しかし、電話をしているので、内容は頭に入ってこない。
 フランスは、それらしい、低い声で笑い続けている。酔っているのだろうと思った。
「悩むのが好きな人種だからな」
 どちらかが言った。たぶん、俺だと思う。イギリス、と奴が言った。フランスは、誰にたいしても、まるでチープに口説くような声を出す。奴の言う事の大半は、いかに俺が素晴らしいかだ。猫撫で声とは違う。常に、演技をしているような声だ。気持ち悪いが、それが、性的な魅力にもなっているのだろう、と分析した。苦悩に酔いきる才能を持っている。
「お前もだろ」
 フランスが言った。だから、先ほどのセリフは、やはり俺が言ったモノだったようだ。どうにも、ボーっとしている。腹が減っているせいだろうか。何か食べなくてはいけないと思う。
「俺は、別に好きなんじゃない」
 ふうん、と癇に障る声が、俺を苛々させた。威勢のいい声が聞きたかったのではなくて、単に俺をからかって、気分をよくしたいだけなのじゃないかという気がした。
「わからないのが嫌いなだけだ」
 はっきりと俺は言った。首筋は骨がきしむような痛みになっている。肩甲骨まで、筋肉が張っている。  TVのレポーターが、何か言った。耳の奥が痛い。かろうじて、音が聞こえる。喉が乾いたので、仕方なくキッチンに向かった。風邪気味なのか、何を飲んでも塩味か、もしくは逆に味を感じない。気の抜けたコーラは嫌いなので、新しいペリエを開けた。
 問題は、愛が足りないことだ、とフランスは言った。言い方が、どうにも、年寄りじみていると指摘したら、怒ったように否定する。
 腹が減ったついでなので、携帯電話を寝違えた首に挟みながら、パンを切った。それにバターかピーナツバターを塗ればそれなりの用を足す。
「痛っ」
「どうした?」
「パン切ってたら、指を切った」
「間抜けだな。そのまま切り落としちまえばいいのに」
 馬鹿言え、と俺は笑った。痛んだ首に電話を挟んでいるせいか、指を舐めるのも辛いので、俺は、まな板の上にあるパンに齧りついた。持ち上げるとうのが億劫なのだ。齧りついてから、まだ痛くない方の手で電話持った。咀嚼するあまり品のいいと言えない音が、受話器越しで俺にも聞こえた。フランスが、「何やってる」と言った。口を離してから、パンを食ってる、というと「ジャムくらいぬったのか?」と聞く。忘れたていた、というと、「食べることを意識しないのは、生きる意志がないのと同じだ」と嘯いた。「俺は執念深い方だと思うぜ」と反論する。首が痛い。肩をあげるのが辛いので、できるだけ、手を上にあげないようにして食べかけのパンを持った。ソファに戻る。TVはまだ、何か言っている。
「気分はどうだ?」
 俺は分析医を続けた。
「ん、あんま」
「じゃぁ、何を言ってほしいんだ?」
「そういう事をいうからお前は嫌いだ」
 なら、電話しなければいいのにと思う。
「お前は、愛が足りないんだよ」
 まるで、足りることを知っているかのような口ぶりだ。
「またそれかよ。やっぱり、振られたんじゃないのか?」
 フランスは愛について語り始めた。そういうところが、女っぽいと思う。
「究極の愛の形って、お前はなんだと思う?」
 ああコイツは酔っているのだなと思った。電話を切ろうか。しかし、暇なのと、あとでからかうネタになりそうなのとで、そのまま聞いていた。早くぼろを出せ。
「さぁ。俺に愛を聞いても意味がないことはお前が一番よく知ってるだろ」
 アメリカを見ていると、何か素敵なものがあるのだと信じている節があると思う。全てが自分で決められると思うあの意志の強さには嫉妬する。
 愛とは、何か、とても純粋で素晴らしく、優しいものだ。俺もコイツもそう思っている節がある。俺の「愛」とやらの解釈は、少なからずこの男の影響を受けている。腹立たしいことに。そのフィルターから、さらに俺の頭を通して像を結んでいるのだから性質が悪い。
 フランスは、唐突に、カニバリズムの話をしだした。趣味が悪いな、と思った。肉体を搾取して、相手が手に入れる。SFだ。
「究極なんざなくても生きていけるだろう」
 俺は、フランスよりは真面目なのだと思う。恐らく、似ているという自覚もある。それを好ましいとは互いに思ってないが、自覚しない無神経よりはましだ。
「でも、どうせなら至高がいいじゃないか」
 フランスは食い下がった。寂しいのか?と聞いた。愛が足りない、ともう一度フランスは言った。指先の血は止まらない。
「欲しいのは、愛じゃないだろう。男が欲しいと思うのは、欲望を賭けてもいい何かだ」
 酷く、ドロドロしている。羨ましいのは、フランスと言う男は、躁鬱に溺れることができることだ。俺は出来ない。コンプレックスの原因は、俺の中に流れる中途半端さだ。どっちにもいけない、という意識がある。もしくは、両極端だ。これはどっちでもないのではなく、どっちでもあるのが問題だ。溺れ切る、ということが出来ない。演技がかっているのは、確かに似ている。が、その演技を馬鹿らしいと知って笑う事が出来ない。馬鹿らしいから、止めた方がいいのかという風に悩んでしまう。しいて言えば、それこそが苦悩なのかもしれない。
 フランスはますます酔っているようだ。話を続けるのが面倒なので、そろそろ切ろうかなと思う。しかし、着る前にフランスが口を開けた。
「勃起が止まらないんだ」
「酒飲んでるのに?」
「ああ」
「お前、単に疲れてんじゃねぇの?」
 勃起も止まらない程に。
「かもしんねぇ。ご時世だから」
「そうだな」
 体は精神を引きずる。憂鬱は、感染する病気だ。首が痛くて、パンも齧れない俺は簡単に飲みこまれてしまう。が、なんとか踏みとどまろうと抵抗する。俺は、こいつを嫌いだと1000年前に決めたのだ。だから、なおさら、気を吸われるわけにはいかなかった。
「××××すれば?」
「お前が貸してくれるんなら」
「死ねよ」
 血が止まらない。
 目の中に星が浮かんでいる。
「寂しいんじゃなくて、セックスしたいんだろ」
「同じことだ」
 お前だって、変態なの好きだろうというが違う。俺は、それを表に出そうとは思わない。
 いいだろ?と言って、強要することを、恐らく、俺はこの男から習った。違うと反論すれば「わかってない」と言われる。そして染める。愛とは何か?その明確な答えを、俺は持たない。そう言うと、わかってねぇな、とこの男は言う。理由が欲しい。
 いい、と思うと広めたくなるという。その心理は俺にもある。だが、冷静になって見れば、見せびらかして広めようとする必要はないのだ。そこにあるのは、エゴだ。あるいは同化の欲求。
「町で買えよ。パリの娼婦は知的だ」
 ネズミの脳とワニ脳を大脳皮質が抑えている。俺の脳下垂体が、包茎出ないことを祈る。フランスは、支配されるように、支配したいタイプの男だ。俺も同じだから、そりが合わない。と、同時に、一人でどこかに遠くに行くことも出来ない。
 俺は俺の中を見る。それでも溺れることはできない。溺れるのは、表に出すことができる人間だ。性を、表に出す、その必要を感じない。淫靡だからいい、訳では決してないのだ。もしかしたら、フランスは、想像力と寝る必要がないのかもしれない。
「相手の肉を食っても満足しなかったらどうするつもりだ」
 腹が減っている。食べかけのパンは、歯型から、カビが生えてくるような気がする。
「俺が食うとは言っていない」
「料理好きなんだろ?美食家の名が折れるぜ」
 多分、この男は、簡単に夜がいい、とか夜が好きだと言えるんだろうなと思った。暗闇を持っている、とか、陰りと憂いが素敵だとか。
 責めたい、と思う。そして、何度となく責めてきた。誰かを責めることは、自分を責める事と酷似している。それは、自分の人生の決定権が、自分にないと認めるのと同じことだ。それでも、出来事は容赦なく襲ってくる。
 襲ってくるのは不幸でもあいの不足でもない。出来事なのだ。
「もし、なにかそういう肉が目の前にだされたらどうする?」
「わかんねぇよ。考えたくねぇ」
 フランスは、やはり意地汚いと思う。意地が悪いのは同じだが、俺は恐らく、汚くはない。きれいではないが。演技は出来るが、わざと無神経を装う事は出来ない。必要を感じないからだ。攻撃性と暴力性には魅力を感じるが、摩耗させるよりも、刺して終わりのナイフがいい。が、実際は、感情で、それを選択することはない。本当に、滅ぼす時と言うのは、その必要がある時なのだ。感情が、滅びないの同じで、感情ではせん滅することが出来ない。
「考えろよ。一回くらい、あるだろう」
 これは、考えたことがという意味だろう。確かにそうだ。いつかは覚えていない。前、結局、自分がどういう結論を出したのかも覚えていない。が、俺は、食べる、と答えた。
 もしも、微かにでも愛していたのなら、食べざるを得ない状況だったのなら、せめてそうするのが慰めだと思う。
 食べたいかどうかは別にして、食べてもいいと思えるものに巡り合えたとしたら、それは世界の幸運に感謝すべきだ。もしそうだとしたら、相手は、食べたとしても、同化しえない何者かなのだろう。
「酷いな。変態だ」
 この話を持ち出したのはどっちだ。俺は自分の忍耐をほめたくなった。
「たまに、男でも、こいつになら抱かれてもいっていうのがいるだろう」
 俺は黙った。全ての男がそう思うわけではないのは知っていた。完全に、女にしか幻想を抱かない男、というのがいる。ナルシストに多いわけではないが、大体はナルシストか童貞だ。俺は、異性を信望する。だがフランスの言った意味が、ホモセクシャル的な意味合いでないのは分かっていたので、そうだな、と答えた。
 この男は、ロマンチストだ。それを女々しいと思っていない。女性的な細やかなきづかいというのは、セックスアピールとしてはむしろ有効だ。
 頭の中で、有名な、クリスマスのピアノ曲が流れてきた。美しくて、少し純粋ぶっている。その作曲家の曲は、どうもいつも、ぶっているように聞こえる。でも天才だ。静謐。庭は明るい。色彩は自然だ。メタリックなところが一つもない。ただ、このひねった首では、しばらく世話が面倒になるのだけが問題だった。
「勃起は、収まったか?」
「いいや」
「自慰しろよ」
「抜けねぇんだよ」
 フランスは電話を切った。それを、テーブルに置いた。
「俺は遅漏専門の医者じゃねぇ」
 エンドレスは存在しない。iPodの電源はいつか切れる。
 左の腕から上がらない。
「出来たぞ」
 肉。眼の前に肉があった。焦げくさい匂いがする。
「痛いか?」
 わからない。
 右手がない。眼の前のフォークが差し出された。刺さっている肉を食べた。味が分からない。
 まるで、子どもが読む殺人百科だと思った。
 憂鬱なんだ。フランスはまた言った。憂鬱は人を殺す。狂気もそうだ。まともである、とうのと、狂っているのは違う。この男がドロドロしているのは、コレステロールのせいだと思った。傷口が、不潔に疼いている。
「食べろよ」
 強制し、同意を求める。そうして優位を確認する。そういう事を俺はこの男から習った。この男は、恐らくまだ「何か」を信じている。何かがあるということを。俺はそれを望んでいる。が、なくても諦めている。諦観の方が先だから、絶望せずにすむ。絶望するには、溺れなくてはならない。
 息が苦しい。いいわけがしたい。が、俺はそれよりも先に、息苦しさに耐えられないのだ。それに耐えうる強さ、若しくは鈍感さを持つ者だけが、溺れることができる。俺は繊細ではないのかもしれない。
 この男が、躁鬱なら、俺は神経症なのかもしれない。だがどうだろう。ヒステリーの割に、醒めている。
 俺は肉を食べた。美味いかと聞かれた。不味くはないと答えた。この男の睫毛は長すぎる。その一本一本を、俺は眺めた。美しいのは確かに罪なんだろう。醜いのと同じくらいに。白い目の部分が濁っている。俺の眼は、こんなバターのような眼をすることはできないだろう、と思った。
 フランスが俺のない肩を抱いた。首が痛い。低い。うめき声だったかもしれない。
 俺は、左手で肉を食べた。