誰もいないと思えば、足は思ったよりも容易に踏み出した。ジーンズの左ポケットに黒革の財布。スレイヤーのTシャツの上に、臙脂のジャケットはロードライダース、ボロボロになったコンバース。ボストンバッグの中には数冊の本と、それからiPodとヘッドフォン。扉をあける。キィ、という嫌な音。しかし嫌に興奮いしていて、心臓が高鳴った。アーサーは持てる荷物だけで走り出した。
 頼みの綱となる財布は厚い。フランシスは、意外にも金払いの悪い男ではなかった。アーサーは暗い夜道を息を切らして走りながら、薬には手を出さなくてよかったな、と思った。もし手を出していたら、振り切るべき荷物も、背負う重荷もそれだけ多くなっていた。逃げ出すなら、どちらも軽い方がいい。
 霧雨が降っていて、アスファルトが濡れるにおいがする。時折、細い路地を通る車がクラクションを鳴らしたが、それも振り切る。今日は泊まれなくてもいい。軒下で新聞紙一枚で寝てもかまわない。もし、本当に自分が鎖に繋がれているとするならば、それくらいの力でもって切らなくてはならない。
 追手に関しては若干の不安があった。見つかるなんてもってのほかだったから、携帯電話は置いて来た。まさか服に発信機をつけるなんてそんな馬鹿な事はないだろうから、このまま見つからずに、アンモニア臭の漂う夜霧のスラムを抜けてしまえば、それでアーサーの「勝ち」だ。
 逃げてその先は?そんなのは考えてはいない。考えていては逃げられない。彼が振り切ったのは金ではない。寝床ではない。手だ。優しければ、優しいだけ、性質のわるい、あの細く少し骨ばった指をしたその手だ。彼が何者か?興味がないと言えば嘘だ。彼は何故、自分にこんな仕打ちをした?疑問がわかないとすれば偽善だ。それをどうでもおいいと言いきるのは欺瞞だ。だが、それ以上に、するべき事がある。逃げなくてはならない。あの、耽美を望む頽廃は、少なくともアーサーが彼と共にいて、受け入れられる性質のものではなかった。
 追いかけてくる気配はなかった。それでも走った。街灯は少なく、娼婦と娼年が時折、声をかけるのが聞こえる。吐き気がすると思うし、軽蔑もしたくなるが憐憫もわく。彼らはごくたまに、寂しい分だけ、優しい。
 彼は追いかけてくるだろうか?
 追いかけてほしいように思う。それを、息を吐き切る心肺で、痛みを伴って感じる。彼が、郷愁になってしまった。あの唇をかみ、肌をかんだ。精液も飲んで、飲まれた。おもちゃではあったのだろうが、不思議と「遊ばれている」ような気はしなかった。フランシスは、まるでそれが楽しい。
 走る。寒くないように。考える前に、憂鬱に落ちないために。確かにこれは逃避だった。しかし、闘争だった。この先が幸福か否かが彼にとっての問題点ではない。今が不幸だというのが問題点なのではない。嫌悪するのは同化だ。毎日、毎日、同じ歯を食いしばって肌を晒して同じルーティンを繰り返す。望むこともなく、カギのかかっていない鳥かごのなかで、ただただ優しいふりをした、この世界を直視できない臆病者が一緒に腐ってくれと頼むのを、三白眼で睨みあげながら受け入れる。そんな義務はないと思った。
 風が段々と強くなる。道に転がる煙草の吸殻を吹き飛ばす。スニーカーの中がちゃぷちゃぷと音を鳴らす。バッグの中のiPodは無事だろうか?変なことを考えた。
 彼は追いかけてくるか?
 それは期待であり不安である。焦燥である。
 彼が今、眼の前で孤児院に居た自分を迎えに来たのと同じブルーのBMWを止めて、静かに降り立ったとして、自分はその手を振りきれるか?あの青を裏切れるか?
 自信はあった。あの目を見て、Noを突き付ける。
 あんたがいうような、この世界がクソだとかそういうのはどうでもいいんだよ。それこそまさしくトイレの窓枠についたハエのクソなみにどーだっていいことだよ。
言えるだろう、きっと言うだろう。
それからどうなるか。推測は尽きない。彼は、何事もなかったように新たなる誰かを迎えにどこかにいくか?その想像は、アーサーの罪悪感をかきたて小さな針として彼の胸を刺すものの一つだ。あるいは、絶望と孤独で酒によって世界を只管恨み羨みながら崩れて老いるのか?それはまるで、そのまま放置した果物、腐って落ちた果物の醜い末路だ。またあるいは――彼はその優しい手に光るナイフを手に持ち、アーサーの腹を刺すだろうか。そしてそうなったとして――彼の荷物にもナイフが入っている――あるいは逆にフランシスの膵臓あたり自分がナイフでさくりと突くのか?わからない。その感触はどんなだろう。腹周りの皮膚を舐めた事もあるし舐められたこともある。それを押した時の弾力も知っている。だが、皮を突き破られて肉を抜け、内臓に届く感触はしらない――そうまで考えそうになってそれ以上できなかった。打ち消したと言ってよかった。そんなのはない方がいいにきまっている。それはある種、甘美な終わりかもしれず、脳のどこかで小さな虫が睦言をささやき、神経を刺激する。だが、そんなのに落ちてはいられないから、アーサーは今走っているのだ。ともあれ、どれもこれもありえそうでありえないような気がしている。
そして、もうひとつ、可能性のある事態としては、明日からまた同じ毎日がはじまるということだった。裸を晒して、喰われ、飼われ、知らない誰かや、常連の誰かを踏みつけまた咥える。そしてまた次の日も、次の日も、同じことが続いて行く。しかし、そんなものは永遠に続けられない。ならどうなる?合わせ鏡のさきは、ぼんやりとした白い毒のようになっている。ただ、確かなのは、ぼんやりとした白の先、自分の自分に関する選択をする権利はないのだ。そのための力はきっと全て奪われてしまっているだろう。それだけは嫌だった。それを思うと、足底から例えようのない不快感が背骨を通って頭のてっぺんまで一気に駆け上がる。恐ろしかった。かれは、そのことに唯も只管怯えて逃げているのだと行って良かった。そうならないためには、何があっても、再び、もう再び伸ばされたあの手をとってはならない。
雨を走る。頭の中では、大量の虫の群れの羽音が重なっていて不快だった。  そうして、おあつらえ向きに車が止まる。色はブルー。彼の色。薄汚い路地裏に似合うBMWのあのエンジン音。この音に迎えられ、この音ともにここへ来た。その距離は約十数メートル。息を切り、立ち止まる。肩で息をしたまま、膝に手をのせ、ぜぇはぜぇはぁと白い息を吐く。
 バタン、とドアをしめるいつもの音。影。街灯はしにかけていて、暗く様子は見えない。ただ彼は静かだった。膝に手をつき、息を切らしたまま、顔だけをあげる。アーサーに知るよしなどないが、その眼はあのいつもの三白眼だった。