横に馬が一匹止まっていた。門を開ける。 ずっと進んでいく。そうすると、すぐに、彼の姿は見つかった。礼拝堂の天井は高く、ステンドグラス越しに射す太陽の光が開放的な印象を与えていた。 彼女がここに来たのは初めてだった。その昔、オーストリアのハプスブルグ家が100年程所有権を保持したが、管理を放棄したため一時は廃墟同然だったホーエンツォレルン城には、敷地内に3つの教会があった。1400年代から変わらず姿をとどめる旧教の教会、それから新教のものとロシア正教会もの。ここは、旧教教会の向かい側にある、新教の礼拝堂だった。 ろうそくの解ける臭いが、かすかにエリザベータの鼻孔をくすぐった。 大小、二つの豪奢な十字架。その前で、ギルベルトは膝を折り、左手に軍帽を抱き、右手を軽く握って祈りをささげていた。牧師はいない。プロテスタントの彼は十字を切らず、だった一心に十字架に向かって頭を垂れていた。彼が着る軽騎兵の黒い軍服の背と腰に差すサーベルの黒い鞘を、窓の色とりどりのガラスから射す光が鈍く照らしている。何も言わず、彼女はそれを見つめた。何分くらい、そうしていたかは分からない。息を吐くと白いのに、呼吸の音も聞こえなかった。それなりに長い間だったと思う。ゆっくりとギルベルトは立ち上がり振り向いた。いつものように笑う目がエリザベータをとらえた。逆光のはずなのに、やたらその紫がった青い目だけが印象に残る。 「何しに来た」 エリザベータは何も答えず、ただギルベルトをにらみあげた。帽子を抱いたまま、彼は一直線に彼女の前まで歩いた。歩くと、サーベルが、カタカタと音を鳴らした。5歩程、離れた位置で彼は止まった。少し踏ん反りかえって笑っている。いつものように、横柄にだった。 「あんたこそ、なんで此処にいるの」 「俺が、俺の城にいて何がおかしいんだよ。折角、前のフリードリヒが建てさせたんだ。俺くらいはここに来るべきだろ」 その通りだった。ここは今、彼の城だった。ホーエンツォレルン城とホーエンツォレルン家。その一族のひとりである、アルブレヒトがドイツ騎士団領を解散しプロイセン公国をつくりあげた。その頃に一度、この城は周りの自由都市によって一度完全に破壊されている。だから、ギルベルトは最初にあったころの城は知らない。ただ、この礼拝堂の向かい側にある聖ミヒャエル聖堂がその昔を、1800年代も半場を過ぎた今に伝えるのみだ。しかし、それが今なお続くホーエンツォレル朝プロイセンの始まりだった。しかしながら、一族の名の由来となったこの城は1400年代以降は、他の手にわたる。オーストリアのハプスブルグ家ものその一つだった。復活したのは、ドイツ統一必要の声が上がり始めたころ、1867年。同じ年なくなったフリードリヒ・ヴィルヘルム4世が祖先を慮りほぼ廃墟同然だったこの山城の立て直しを命じた故だ。しかし、とうのプロイセン王は、完成を見ることなく死んだ。だから、今建てられたこの城も、新教徒のための礼拝堂も、まぎれもなく、彼のものだった。 「あんたがここの礼拝堂に籠ってるって聞いたから、驚いただけ。探す羽目になったでしょう」 「ほー。探してくれたんだ。何の用だよ」 軽い口調だった。エリザベータはすぐにはそれ答えず、また質問を繰り返した。 「また、戦争つもり?」 「ああ。今度はフランスとだ。負ける気はしねぇ」 「あんたは本当にそればっかり」と、エリザベータは嘆息した。ギルベルトは、あまり感情を込めずに「口で失敗したなら、鉄と血しか残りはない」といった。肩からかける白い革ベルトと銀のボタンが嫌に眩しくて、エリザベータは辟易した。ギルベルトは続けた。燭台の火が、ゆらゆらと揺れていた。 「ビスマルクが上手くやってくれてる。フランスは、統一気運を強めるためのコマだ。うまくいけばドイツはこれでまとまる。王は嫌がるだろうが、国民は望んでる。そうでなきゃ、ドイツは皆まとめてデザートになるだろうよ。俺にはそれがわかってる」 「そうしてオーストリアさんを省くんでしょう?」 まっすぐに、彼女はギルベルトの目を見上げた。昔は対して変わらない慎重だったような気がする。ギルベルトは何も言わなかった。エリザベータは強い声で言った。 「私がいるから」 「……別にお前だけが、原因じゃねぇ」 そうね、とエリザベータは初めて笑った。 笑いながら、彼女は首を振って「けど、あんたはドイツ民以外は切り捨てる。ドイツ語が話せないといって」と、ため息をついた。もう一度、ギルベルトは黙った。 「あんた、それでいいの?」 「何がだよ」 「だからそれで」 本当にわからないと言った風に、ギルベルトは口に手を当てた。だから、逆に質問した。 「じゃぁ、お前はどうなんだよ。男の服を着て、槍を片手にあの眼鏡の坊ちゃんを守ってやるつもりかよ?」 「そうね。それも悪くないかもしれない。だってオーストリアさんはあんたと違って本当に素敵だから」 明るい声だった。ギルベルトは、少し傷ついたような顔をした。黒い軍服を着て偉そうなのに、少しだけ小さく見えた。けれど、やはり尊大に言い放った。 「ほぉー。じゃぁ何か。どこぞフランスの聖女をきどって、魔女にでもなるのかよ。知ってるだろ。男装は罪なんだぜ、ハンガリー。あれから、ちんちん生えてきたか?」 「バッ……!」 あまりの言い草に、エリザベータは顔を真っ赤にして声を失った。変わりに、目の前の男は、ケタケタと腹を抱えて笑っている。思えば彼の方が、長い付き合いだった。 「……最低、本当にあんたって最低!しかもこんな聖なる場所で!」 彼女は髪を振り乱して怒鳴った。彼は、悪い、と笑いながら謝った。エリザベータはまた溜息をついた。 「本当、このお城はあんたみたいよ。カトリックに、プロテスタントにロシア正教。まるで小さなベルリンだわ。節操がないったらありゃしない」 「おれはどこぞの眼鏡のぼっちゃんと違って自由が好きなんだ。自由を認める。ユダヤだろうがイスラムだろうが関係ねぇよ。神の御許、俺は自由だ」 そういって笑う彼は、後ろ振り帰った。荘厳な彩を見せるステンドグラス、高い天井。立ち並ぶ椅子。パイプオルガン。説教台。太陽にあったて金に光る十字架。この新ゴシック様式の建造物の全て見渡す。何か尊いものように、彼はそれを見ていた。エリザベータの記憶では、彼が尊敬する王達は、あまり信仰心の篤い人間ではなかったと思う。しかし、彼はいまだにドイツ騎士団当時の信仰を、不思議と持ち合わせているようだった。 エリザベータも同じように、首をあげて、教会の窓ガラスや、柱を見渡した。エリザベータは、「すごいわね。綺麗だわ」といった。そうだろう、とギルベルトは低い声で返した。エリザベータは、教会のガラスから、天井を見上げる彼の喉仏に視線をうつした。彼の頭が、随分と高い位置にあるような気がする。見られているのに、気づいて、ギルベルトもまた視線を戻した。エリザベータは「ねぇ」と聞いた。彼の唇は、やはりいつものように笑っていた。 「ねぇ」 興味で聞いた。 「何を祈ってた?」 はん、とギルベルトやはり笑った。 「さてな。何だろうな」 エリザベータは、気のないように、「そう、」と言った。笑いながら、ギルベルトは、無表情で自分を見るエリザベータの次の言葉を待った。彼女が小さく、口を開いた。 「私、祈ってる時の貴方、酷く好きよ」 ギルベルトは、少し驚いたように目を見張って、それから「そうか」と言って俯いた。礼拝堂の広い空間に吸い取られてしまいそうなくらい、それは小さな声だった。代わりに、彼女のいった台詞が、この教会に反響して響いたような気がした。 俯いた視線のまま、ギルベルトは言った。 「その刺繍」 ギルベルトは、エリザベータのコートの端から除くスカートの裾を見ていた。 「自分で縫ったのか」 「ええ」 彼女は感慨を込めずに行った。 「上手い。綺麗だな」 赤。橙。ピンク。とりどりの色からなる刺繍。複雑な模様を描く刺繍。しばらくじっと、ギルベルトはそれをみていた。エリザベータは、きちんと、ありがとう、と言った。いや、本当に綺麗だ、ともう一度ギルベルトは言った。しばらく二人は何も言わなかった。そうしていたら、教会の鐘の音が鳴った。何度も何度も、うるさい程にそれはそこに響いた。 軍帽をかぶりながら、「悪りぃんだが、」と彼は言った。 「俺も忙しいからな、あんまり相手はしてやれねぇ。部屋は取ってやるよう言ってやる。感謝しろよ」 ちょうどその時、彼の後ろから太陽が強く窓ガラスを照らした。ホーエンツォレルン家の黒鷲の紋章。彼の国旗の同じ紋章。そのステンドグラスが光る。それを背景に、トーテンコップ、髑髏の徽章を持つ軍帽をかぶり、黒地に白で縫われた軍服を着て笑った彼を、多分一生忘れないだろうとエリザベータは思った。眩しくて、目を細めて、ほんとうはロクに顔も見えなかったかもしれない。けれど、そう思った。 しかし、それは一瞬のことだった。ギルベルトはまた真っ直ぐ歩き、エリザベータの横を過ぎて行った。歩くと、やはりサーベルが少し音を鳴らした。彼女はその背中に着いていく。一人で来たのか?と彼は聞いた。馬でね、と答えるとやっぱりな、と彼は言った。 「春にまた来るといい。山から見下ろす町が綺麗なんだ」 「できたらね。きっと無理だろうけど」 ギルベルトはしばらく言葉につまった。言葉に詰まっているのに、廊下に彼が変にあわてる様子が音になって響くようだった。 「じゃぁ、隣の聖ミヒャエル堂でパイプオルガンを聞いて帰れ。バッハを聞かせてやる。オーストリアへの土産話くらいにはなるだろ」 そう言えば、彼もそれなりに音楽が好きなのだった。彼女は、それにも、気が向いたらね、とそっけない返事をした。聞いてけよ、俺様が聞かせてやるって言ってんだから、というのが酷く彼らしかった。 廊下を抜け、門を開けて外に出る。 馬が、主人を見つけて、クンと鳴いた。ギルベルトは、その鬣を撫で、身軽にそれにのった。 「お前の馬は?」 「馬屋につないでもらってる。いいわよ。せっかくだから少し歩いて回る」 だったら、とやはり偉そうにギルベルトは言った。 「遠乗りさせてやるから、乗れよ。山だから楽しいぜ」 は?と今度はエリザベータが驚く番だった。なにがどう、「だったら」なのか。 「何言ってんの?忙しいんじゃなかったのアンタ」 少しくらい大丈夫だ、と彼は言った。 「いいわよ、別に。行きたくなったら自分の馬で行くし……」 エリザベータは面倒くさそうに、首を振った。 「乗れよ」 表情を消して、もう一度、ギルベルトは言った。目の前には白い手袋をした手。ふと、いろいろと思いだした。 彼女は笑って、その白い手袋に包まれた手を取った。ぐっと引っ張られる。手の形が、別の彼とは違うなと思った。 「今日きりよ。私より乗馬ヘタだったら蹴落としてやる」 「お前、俺様を誰だと思ってやがる」 ギルベルトは、やかましい位に豪快に笑って、鞭を鳴らし馬の腹を蹴った。 |