狂人の女が夜の獣道を歩いている。彼女は大声をあげて歌っていて、人々の眠りを妨げる。悪魔が、他の村人にも乗り移らないよう、早く殺さねばならない、とがいうのが聞こえる。イギリスは眠っていた体を起こした。頭のなかで鳴り響くようなその歌がおろしく、胸が鉛。森の中は、落葉樹の葉が月や星の光を覆い隠し、回りを見ることができない。光は、夜に起きている獣の目くらいなものだった。背中に刺した弓を手にし、イギリスは目を閉じて、眉間から頭蓋骨を抜けたあたりの中心に意識を集中した。矢をとって、弓につがう。ぎり、ぎり、っと弦を引いた。見ろ。見ろ。
 射った。羽根が風を裂いて、ぎゃ、ッという声で刺さったのが分かった。イギリスは目をあけた。辺りは変わらず真っ暗闇だが、先ほどよりも視界が開けた気がする。秋は深く、木の枝を大きくゆらす風はつめたい筈だが、首の後ろから流れる汗は止まらない。女はまだ生きている。イギリスは腰のタガーをひき、右手の人差し指と中指を舐めると刀身をなでた。口先を小さく動かし、地面をドン、と刺した。すると、ズンズンと地面に波が広がった。また悲鳴が聞こえる。だが、これは断末魔ではない。見える。女は膝をつき、両手の強く握って、喚きながら、拳に土をつけながら地面をたたきつけている。イギリスは、彼女もう一度弓を構え矢を放った。続け様に、3本。その矢は喉首、心臓、はらわたを貫いた。
「まだだよ。まだ彼女は死なないし、死ねないよ。死んでないだろう?」
 王は言った。名をジョンという。正確には、イギリス、彼にとって王と言うことであって、冠を抱いていはいない。イギリスとジョンは、このシャーウッドの森を通り、ノッティンガムの代官の元へ向かっていた。森の中には、村からもれた夜盗や、おいはぎ、あるいはああして、魂がとっちらかってしまった物が眠っている。
「確かに、死んでいない。あれは灰色の怨嗟だ」
 イギリスは淡々と答えた。あれの身体は、とうに死んでいる。このままでは腐り落ちて動くものになる。しかし、怨嗟に満たされた体は、延々と森をさまよい歩き、正気の人間を、同じように、魂のとっちらかった、肉塊にしてしまう。これ以上は矢の無駄だろうが、とイギリスは後ろで眠るジョンの気配に注意をしながら、もう一度矢を番えた。彼女を今すぐに、殺しきる、つまり土にかえすことは不可能だ。首を跳ねても、魂はとっ散らかったまま、その体にとらわれて動き続ける。故に、彼が矢に込めるのは「優しさ」だった。殺し、天か、あるいは万物に帰り、楽になれ。そうして、体に矢で、いくつかの穴を開けて、中に詰まっている、「悪臭」を抜くのだ。
「放っておけよ。あれはあれの責任だ。ああ、なってしまった、あれの責任だ」
 暗闇の中で、王の声は確かに聞こえた。お前の民だろう、と思ったが、言いはしなかった。この王は、あまたは切れるが、常人は理解しがたく、妙に冷たい所がある。いや、妙に冷たい所、つまり自分の三つ以外の他人に対する不理解(時には自分の身内にですら不利回である)というのはこの時代の王の常であり、珍しいものではなかったが、ジョンは特別その性格が、冷静に破綻しているように思われた。女の悲鳴が聞こえる。そろそろ死んだろうか。死ねるだろうか。しかし、イギリスは結局、ジョンの話しを聞かずに矢をもう一本だけ使った。ひく、ひく、と絶叫は泣き声に変わった。それまでにまた体に臭気が溜まるかもしれないが、これでひとまずあの女は死ねるだろう。
「イギリス。私をあの女の所に連れていけ。私一人では前に何も見えないが、お前に連れられてなら行くことができる」
 振り返って、イギリスはいやそうな顔をした。成程、確かに、自分はこの中を見ることができる。しかし、見るのは大変疲れるのだ。しかも、王を、少なくとも、自分にとっては王であるこの人物を、ああした女の元に連れていてくのは、彼が狂いにふれる回数が増えて、ああしたその狂いになる可能性が増え続けることを示している。狂いというのは、ある種の力の源でもあったから、それを操作することさえできれば有用ではある。この若い王は、狂いの力を利用することに非常に長けており、本人もそのことに傲慢な程の自身があったから、ああいう狂いを見ると、放っておくか、近づこうとするのだ。それでもイギリスは、王の言うことだから、黙って野宿のための荷物をまとめると、彼の手を自分の肩に手をのせて歩きだした。イギリスは、見えない足元に注意をしながら自分よりも中指一本分ほど背が高い王の歩く速さに合わせて進んだ。だんだんと女に近づくと、叫び声が頭を締めつけ、「悪臭」が鼻についた。イギリスは、三半規管が壊れた獣のような、酔いを感じたが、吐き気を抑えて、そのまま前に進んだ。
イギリスは、耳と鼻が利く。地面に耳を押し当てると、だいたいどれくらいの軍勢が、どれくらいの速さで進んできているのかを、かなり正確に言い当てることができる。しかし、それ故にこの「悪臭」に近づくのは苦手だった。少しでも離れていれば多少気分が悪いくらいで済むのだが、殆ど目の前にくると、めまいを感じて倒れたくなる。が、しかしジョンの気まぐれの御蔭で、倒れたくなったまま、戦う事にも慣れていたので、もしも真昼であれば青くなっていると分かるような、血の気の引いた顔で「ここだ」「ここにいる」とイギリスはジョンの手をとった。しかし、臭い。とにかく辺り一帯に「悪臭」が満ちている。
5本の矢に貫かれた、女は「灰色の怨嗟」をまきちらしながら喚き、呻いている。ジョンは、イギリスの手に従って、片手で女の顔にふれた。もう片方をジョンがさし出そうとすると、女がその手を噛みそうになったので、イギリスは慌ててジョンの手をとって、女の、もう一方の頬に触れさせた。すると、女の動きが止まり、喉の奥、痰が絡むような呻きが細いものになった。ジョンはそのまま、その女の額に口づけをした。唇を離すと、狂人の女の腕は、だらん、と伸びそのまま絶命した。つまり、彼の唇は女の怨嗟をのみ清めた。そのためにこの王はある。女は死んだ。解放されたのである。
「私一人では無理だ。お前の矢がこの女を刺したからこそ私はこの女を救えるのだ」
 ジョンは言った。それは事実だった。元にあれかし、と望んで放たれた祝福をうけないままに、この女に触れていたならば、いかにジョンとて身が無事という保証はなかったであろう。
埋めろ、とジョンは言ったがここにはシャベルがなかった。それに、イギリスにとってその女に触れるのは劇薬に触れるのに等しかった。埋められないのは分かっていた。
「今日はこのままでは残りの夜をここで眠ろう」
 ジョンが言った。未だ「悪臭」が残るこの場所で眠ることにイギリスは恐怖したが、それに従った。女は救われ、明日にはこの辺りの悪臭も散っているだろう。ジョンは、一応はイギリスがこの匂いに弱い事を知っていたので「大丈夫か?」と尋ねた。大丈夫だ、とイギリスが答えたので、実際はイギリスにとってはかなりの無理だと知っていたが、それ以上の事はしなかった。彼はそう言う人間だった。
「お前は、フランスでは生きていけないな」
 ジョンは、再び寝るための準備をするイギリスを、木にもたれかかりながらからかった。ジョンにはこの暗闇で何も見えてないからという理由ではなく、イギリスはむっとしたことを隠さなかった。何故なら、イギリスは見た目こそ15、16の青年だがこのジョンが生まれるよりずっと以前、フランスにいたからである。
「臭いんだろう。フランスは。あのなりのフランスは」
 ああ、臭い。あれは、いまここで安らかに眠ろうとしている狂人の女と違い、自分の意志を持って生きているが、軽薄に笑うアレは恐ろしい「悪臭」を身に持っている。感じとられるのは、フランスと同質、同等であるイギリスくらいではあるが、そのフランスの悪臭は、この哀れな女のものと異なり、身に閉じ込められているものであるにもかかわらず、イギリスには彼女の放つ匂いの百倍ほど強いものに感じられた。
イギリスは、あのフランスの土地に生きる、見知った顔のフランスとの再会を思い浮かべた。知っていた以上に、男のくせに女のような形は、ますます美しくはなっていたが、それと同じくして、「腐臭」が彼の中に宿っていた。
「まぁいいさ。あれを盗るために私達はここにいるのだ。あの国の臭いも時期になくなるさ」  イギリスは、寝る用意ができた、とは答えたがが、ジョンの言う事には答えなかった。  しかし、対フランス。そのために二人がノッティンガムまで来たことは、間違いないのだった。