マフラー越しでも空気が刺すように痛い。耳はきっと赤いだろう。雲が太陽を覆うと、ただでさえ寒いのに、余計に気温が下がって、俺はぶるりと体を震わせた。重たい鉛のような雲がアスファルトの灰色をさらに濃くしている。さっきまでは、澄んだ晴天だったのに、空は急にその色を変えてしまった。湿った空気と土の匂いが鼻をくすぐる。隣で歩くイギリスは、鼻歌を歌いながら天を仰いでいる。カーキ色のトレンチコートを着込んだ奴が、スプレーでハイルと落書きされた壁沿いを歩くのは、まるでチープな絵葉書みたいだった。そのくせ、言うことときたら、 「寒ぃからカレーが食いたい」 だから俺はこいつといるといつも笑ってしまう。笑うと口と鼻の穴から白い息が漏れた。イギリスは、嫌そうに眉をよせる。 「今日持ってきたのはマカロンだ。あわねぇよ」 馬鹿にして俺は言った。 「それは茶と一緒に食えばいいだろう。カレーの前菜にだすわけじゃねぇんだ」 「お前も前菜なんて言葉知ってたんだな」 からかうと、あからさまに眉を跳ねる。昔からからかいがのある奴だった。 「食ってやってんだ。感謝しろ」 きっとこいつは俺を、野良犬に餌をやる浮浪者と勘違いしてるにちがいない。俺は、肩をすくめため息をついた。そうして口から上った息が灰色の雲まで上っていく。そのせいか、雨粒が一つポツリと落ちて、ネズミ色の道路をさらに黒く染めた。コイツのアパルトマンまであと50メートル。雨の中も傘をささずに走るのは寒いのか熱いのか、良く分からない。 「畜生、思ったよりも濡れちまった。お前、シャワー浴びるか?それともタオルだけで」 俺は適当に相槌を打つ。玄関に立って濡れた髪をかく童顔があんまり好みだったから。エプロンをつけてカフェオレを入れるのは止めにした。 太陽が覆って寒い日はあんまり外にでないで家に籠るに限る。とくにロンドンは寒いから。そんでもって部屋の中で運動できれば最高だ。パートナーがイギリス人なのは気にくわねぇけど、まぁいい。 奴のアパルトマンはいつも俺の部屋より綺麗だ。もっとだらしない方がいいのにと思う。寒ぃ、とイギリスは歯を鳴らしながらコートを脱いだ。でも、夜はカレーだから温まるかとまだ適当なこと言いやがる。お前の食いものはカレーしかねぇのかよ。ガキか。 ぶっとい眉毛をよせて、苛立ちを混ぜて奴はどなった。 「おい、フランス!聞いてんのか。先にシャワー浴びるなら……」 「いらねぇよ」 イギリスは、はぁ?とガラの悪い声をだした。 笑うなぁ。これは笑うだろ。自分だけわかったようにニヤけるのは俺の悪い癖だ。 「シャワーも風呂もタオルもいらねぇ、ついでに飯は後だ」 緑の瞳に俺が映ってる。イギリスは、諦めたような大げさなため息をついて頭をかいた。 「いい、ディナーにお前を食うから」 自分だって気持ちいいことが好きなんだ。仕方ねぇなんて顔すんなよ。 雨の音がソフトからハードに変わった。まるで季節はずれの憂鬱な台風が近づいているようで、外は嵐だ。暗雲がたちこめて、雷がトグロを撒いている。部屋の中でも雨の気配がした。暴風が乱暴に窓を叩く。けれども体は燃えて炎天下。こいつはなんだかいいみたいだ。 「……眼隠しはずせ」 「SMやりたい、つったのはぼっちゃんだろ。とんだ変態なノミちゃんだ」 「うるさ、て……は」 「舌噛むなよ、噛むなら指噛んどけ。さて、どうやって苛められたい?」 うつむせになってる唇に指を突っ込んだ。俺はその後ろからうなじに舌を這わせる。 背中を撫でると、後ろに回した手錠が、かちゃん、となった。イギリスは噛み殺すように息を吐く。レコードマニアのコイツはそれらしく、音に興奮する。金属音だけじゃない。俺の舌が背中を撫でる音。耳に息を吹き込む瞬間に頭蓋骨に響く振動。欲情してる俺の声。体を跳ねる。声は出さない。出した時は吹っ切れた時。だから落とすのが楽しい。 そういう俺は、小説の「香水」のように匂いに敏感だ。首筋を嗅ぐと濃いダンヒル香りがする。俺は麝香のファーレンハイトをつけている。華氏。なんてセックスに相応しい。その匂いと、俺とこいつの汗の匂いが混じる。交るっていうのは、セックスの醍醐味だ。だからちゃんと気持ちいい。 こいつをピンク色に染めるのは俺の義務なんだ。いつもは白い肌が紅潮していくのに血が集まる。ギリギリと俺は手錠を閉めた。かはっ、と吐くようにイギリスは息をする。毎度じゃ飽きるけど、たまには偏執者じみたのもいい。腕の跡は紫がかったピンク色。それは嵐が来る前の空の色だ。俺は痛い方が無理だけど、でもきっとお前は気持ちいいのには耐えられないだろうから。 は、は、と息が上がり始める。胸がこすれる。剃った髭のあとを舐めると微かにザラリとした感触があった。頬に添えた手の指をイギリスが吸う。気持ちいい。それを抜いて体を下げる。太股に跡をつける。きっと俺にもつくだろう。前のは残ってないけど。首にキスマークなんてのはティーンズにやらせておけばいいんだ。良くつけるし、つけられるけど。弱い場所なんてそうそう人によって変わるもんじゃない。たとえばコイツは何故か足の裏が異常に弱い。は、だの、や、だのは出せないから歯をくい縛る。その顔がそそるんだ。 「くすぐられんの好きだなーお前。足揉みとかやれねぇんじゃねぇの?」 「人を変態みたいに言うんじゃねぇ……」 お前が変態じゃなかったら誰が変態だっていうんだよ。 「お前はそうじゃなくても、俺は変態なお前が好き」 イギリスの喉から罵声が漏れる。まるで外の落雷と同じだ。五月蠅くってすがすがしい。俺も同じように返す。口汚いフランス語の罵声がディープキスより深く、心臓に突き刺さるように。 「俺さぁ、騎乗位ってすきなんだよね」 「……じゃあ、乗ってやるよ。目隠ししたままでさ」 「いやいいよ、サービスしたい気分だし」 ふん、とイギリスは鼻をならした。目隠ししてもこれじゃシチュエーションプレイの意味ないんじゃねぇの? ローションを塗りたくりながら思い出す。目隠しなんて初めてじゃないし、俺だってした。逆に鏡の前でもした。撮影だって何回したのかわからない。鞭で叩いたことだってあるし、叩かれたことだってある。たいていの道具は遊んだ。テレフォンセックスだってしたし、トイレでも、車の中でも路上でもした。それこそ嵐の中でもした。同じようで少しずつその時で違う。 「おねだりして、とかそういうの言わねぇのな」 そういう奴の指にキスをする。きっと感じるだろう。その指先で俺の唇が震えるから。それからもう一度、肌の凹凸を確認する。肌と中。視界はまるでショッキングピンク。入ると足の爪から髪の一本、気持ちよくて景色が乳白色にかわる。部屋のにおいは濃い自分達の体臭と、それから雨の。 「お前が言わなくても俺は挿れたいよ」 囁いた。小さくイギリスは、馬鹿、と言った。短い単語なのに、とぎれとぎれだった。 「……可愛くねぇな、おい。憎まれ口叩いてないで少し黙れよ」 気持ちいいなら首だってしめる。コイツだって逆ならきっとそうしてくれるだろうから。灰色の脳細胞も一瞬にして天にも昇る薔薇色になる。 イギリスの唇が動く。雨音が増すほど激しく。なんつった。もっと?早く?いきたい?どれだっていい。 「あわてんなって。一緒に、な」 溺れてるなんざ思わねぇ。だってコイツといるとこんなに息がしやすいんだ。 尤も首絞められて、白い肌を真っ赤にしてるコイツは補償の限りじゃないけどな。 |