プロイセンの冬は寒かった――。ベルリンの冬も同じく寒い。だが、ロシア、シベリアの大地に比べればはるかにマシだ。それでも眠れない日は誰だって等しくあるだろう。しばらく、日記に今日の追記をしていたが、それも閉じて俺は寝間着を着替えた。コートを羽織って、部屋をでる。 車のキーを回しながら、廊下を歩く。玄関で靴紐を締めていると、俺の鼻歌で起きたのか、ヴェストが二階から降りてくる音がした。パジャマ姿の奴は、眉間に皺をよせて、露骨に嫌そうな顔をした。そんな機嫌悪くするなよ。せっかく前髪を下してるのが可愛いのにもったいねーじゃんか。 「こんな夜中に何処に行くんだ」 「大人は夜から活動するもんだぜー」 そう言って俺がふんぞり返ると、ヴェストは大げさなため息をついた。ストレス無駄にためると逆に足元とられんぞ……とか説教したくなったがそれはやめた。 「……風邪をひいても知らんぞ」 「大丈夫、ひくとしたらお前だから!」 「……」 睨む目を笑い返してやると、ムキムキはより一層機嫌を悪くした。うん、からかい甲斐あるっていうのはいいことだ。 「ま、とりえあず俺様はこれからドライブに行くから留守番よろしく」 「待て、それはいいが何処に行く!」 何か酷く焦ったようにヴェストは言った。あー、お前って実は結構ばかだよな。 「ん、大人のいいトコロvお前も来るか?」 結構だ!!と顔を真っ赤にして怒鳴るこいつはやっぱりまだ若造だと思う。なんやかんや文句をつける同居人を背に、じゃ、と俺は片手をあげて外へと出た。頬を指す空気は痛い。今夜はきっと、雪が降るだろう。 ガレージを開けて愛するコバルトブルーのBMW(ベーエムヴェー)を撫でる。冷たい。運転席に乗りこんでドアを閉めると、バン、という音が周りに響いた。キーを回して、しばらくハンドルを握りながら、エンジンが温まるのを待つ。この硬い感触や社内独特の匂いが好きだ。本当は、オープンカーを乗り回したい気分だったが、それは我慢してやる。右手でステレオをつけるとクラシックチャンネルの大げさな音色が流れた。エンジンが十分温まった頃、俺はアクセルを踏む。軽く踏み出しただけでスッと速度が伸びるこの車はやっぱり最高だ。向かう先は、真っ黒な夜。あとはアウトバーンを目指せばいい。最も、そのアウトバーンも大概は混雑していたり、すぐに速度制限区間にせまっていたり、そもそも舗装があれていたりで200km/hなんて出せやしねぇ。まったく湿気てるぜ。 信号を待つ間に、いつの間に19本入りの煙草の箱を開けて一本加えて火をつける。最近じゃ欧州はみんなどこもかしこも気が狂ったように禁煙を勧めやがる。禁煙ファシズムつーのが、日本の偉い教授の口から言われてるらしいが、俺は拍手をしてやりたい。吸うも吸わないも個人の自由だ――環境に配慮をする限りは。 窓を開けると一気に車内が冷えた。でも、幸いここはロシアじゃない。ドライブで風を感じるのはいいことだ。 信号が青になって俺は又、アクセルを踏む。速い。それに口笛を吹いた。夜中の道路は空いていて、俺が思うままに一気に飛ばせる。 ――馬鹿みたいにずっと考えてたのは、なんで俺がここにいるかってことだ。ヴェストがいる。オーストリアの坊ちゃんがいて、ハンガリーはどんだけ俺が誘っても乗ってくれやしねぇ癖にロシアに愛想向けたりしながら生きてる。そんなもんだ。世は事もなし――。フランス、隣の笑い声がうるせぇはお前だけじゃないぜ。俺は100年前からお前らの笑い声が嫌いだった。 なんだか前からずっと、不安なんだ。どうしたって孤独で、酷く寂しいんだ。この夜の闇が、俺の孤独を包む、貝みたいなもんだ。ヴェストの、あの焦った顔――。勘弁しろよ。俺を誰だと思ってる。腫物みたいに触るのはやめてくれ。逆に腫れてくるだろう。 悩みの種を吐き出すように、ギアチェンジをした。ヴェストがやたらめったら、変に気を使ってるのも気持ち悪い。耐えきれなくなる時があるんだ。ニーチェが言った。「神は死んだ――」いや、きっと俺の神は生きてるだろう。そうじゃなきゃ、あんまりに、酷いだろう。死んでるのは、フランスとスペインの股間だけで十分だぜ。俺は、ちゃんと今だって祈ってる。 今夜の空の月は少し欠けてる。でも、いい月だ。時速300で走りぬけろ。そうすりゃ、景色がかすんで遠のいて、アウトバーンはいつか、ベルギーの国境に出るだろう。何故だが、ステレオから流れるのは、ラムシュタインでもスコーピオンズでも、ましてや他の英語のロックンロールでもなくて、ベートべーンでそいつがまた俺の気分を良くしてくれる。だけど、なんで変わらやしねぇが、涙目だ。宇宙で最も、暗い夜明け前。ハイスピードでアウトバーンにとび乗れば、俺だってパールを流せるだろう。 ああ泣ける。どうしたって涙が出る。その割に、俺様のハンドル捌きは見事に正確でそのことにもまた泣ける。ああ全く。何が切なくて何が苦しいことなのか。何が嬉しくて何が悲しいことなんだろう。何が儚くて、何が強いものなんだ?希望も絶望も簡単にその辺に転がっていて、この車よりも圧倒的な速さで、山も荒野も倫理も哲学も抜いて行く。 こんなことを、考えて車を走らせる、俺はきっと孤独な大バカ者なんだろう。こんな愚か者にだって、不自由を嘆ける自由を、主はお与えなさる。 夜が明けるのがまだ嫌だ。冬は夜が長いからいい。朝に負けるなよ。何一つ、答えが出てやしねぇんだ。 俺は、煙草の後は、やかましいベートーベンに合わせて口笛を吹く。馬鹿な俺には、きっと、朝日がとどめを刺すだろう。干からびた空の色をこの目に焼き付ける。なだらかな坂道みたく、道はずっと続いていく。俺もそうやって、続いていく。途切れたからなんだってんだ――。どこぞの誰と違って、その腹は最初から、ちゃんとくくってあるんだ。ただ、夜が蹴る時見てぇに、昼が夕方になる時みえてに、ただそれがちょっと惜しいだけさ。そうやって惜しむのは、まるでイく寸前みてぇに気持ちいいのさ。だから、夜はこうして狂い咲きだ。だから、俺は口笛も吐き捨てる。どこからかずっと、声が聞こえてる。それは神様からの電話かもしれねぇが――。あいにく、まだ俺が種のおわすところに、オヤジの元に召される日は遠いらしい。そりゃそうだな、ヴェストが童貞捨てるまでは俺が面倒みてやらねぇとな。あいつはまだまだ、クソガキだから――だろ?こうして、時たま寂しさと孤独で、頭をアホにしながらも俺は生きてきたんだろ?ずっとこうして、強がる強さで生きてきたんだろ?この車みたく、ハイスピードで。昼も夜も――。だから夜のドライブはたまらないんだ。夜明けになったら、きっと俺はもっと気分がいい。そしたら、その日もまた夜が来るんだ。 狼が唸るみたいに、おれはアクセル全開で高笑いした。笑え。いつものごとく、呵呵大笑しろ。それがこの俺のプライドだ。日に100杯のビールがありゃそれで生きていける。だから、苦味でもって、笑え。 振り返らず、錆びた風は続くだろう。 |