腕に抱くと、その子からはいつも森の香りと、海の臭いがした。
無口な子だった。昔、いなくなってしまった彼によく似ていた。小さなその子は彼がいなくなってしばらくして、それから彼の島に現れたのだった。
その子は可愛かったけれども、彼は大人達に囲まれて何をするよりも先に軍靴の音を鳴らす俺に、他の国々に銃を向け逃げようとした。
俺が子供の頃とはずいぶん違う目をしているよ、とあれから随分年をとった気がするフランスに行ったら、お前が珍しいのさと言われた。
その子はその島を守り、その島のためなら自分の犠牲をいとわなかった。彼と同じだった。
あの子に会った時の胸の痛みを俺未だに覚えている。あの子は彼だった。俺が小さかった時のことを知らなかった。知識としてしか昔の欧州を知らなかった。けれど彼だった。酷くぎらついた目をしていた、荒んでいて擦れていた。そのくせ酷く、純粋だった。
――他の誰より先に。誰よりも強く。
もう、その頃おれはまだ確かにsuper powerだった。他の全てを蹴落としてその子の手を取った。保護国も植民地も最早ない時代。その子は俺の一つの州になった。
性格も彼によく似ていた。
意地っ張りで負けず嫌い。努力家でプライドが高い癖に、コンプレックスが強い。俺はそんなその子を、あらたなるイングランドを、王国を多分、彼と同じようにひどく溺愛した。
睡眠時間を削って会いに行って、彼が好きだと言ってくれるコーヒーもいっぱい持っていた。
彼がなついてくれるようになってからは、腕にだいて一緒にホラーも見たし、彼が好きだというミステリーも見た。時々、空を見て話すようなことがあったけれど、名前を読めばいつだって「アメリカ」といって振り向いてくれた。
俺が帰ろうとすると、いやだ、帰るんじゃないって泣いて甘えてきた、それを見て昔の自分を思い出して俺は何度も恥ずかしくなった。面倒くさいことだらけの中で、酷く癒された。
この子を愛おしいと思った。この日々はきっと永遠だと思った。
彼は、まじめでよく勉強したから、すぐにとは言わずとも必ず大きくなる。その時も必ず、俺のそばにあって、俺の手を握っていてほしいと、そう信じてた。

大きな勘違いをしてた。
彼と同じく俺もよく知っているはずだったのだ。

彼は成長した。体はうすいけれども気がついたら俺の背丈を抜いていた。小さな島に収まりきらぬ程の強欲さとそれに対する節制。マグマの上で綱渡りをするような苛烈さ。
反抗期は酷かった。不良なんてもんじゃない。回りにある全てを破壊せん限りだった。俺が彼を咎めようとすれば容赦なくその苛烈さの矛先は俺に向かった。俺が、愛し、叱ってもその目の苛烈さと孤独はなぜか止むことはなかった。勝てない勝負を挑むタイプではなかった、彼は日に日に強く俺を憎むかどうかしているようだった。
彼の眼はいつもどうしようもなく、孤独だった。彼は本能で、己に限らずすべては孤独なのだと知っているようだった。だが、それでも求める強欲さと諦観を、そして己の中にある熱さを持て余しているようだった。

それも落ち着いた頃。
おれはいつもと同じく、もうだいぶ大きくなった彼の頭をなでて頬に額にキスをして、一緒にコーヒーを飲もうとした。それからハリウッド映画を見て、カントリーをきかせる。はずだったのに。
「ごめんアメリカ」
まず彼はそう謝った。
そう言って俺がいれたコーヒーをさかさまにして全て床にこぼした。
「俺は本当は紅茶が好きなんだ。やかましくて展開がすぐ読めるハリウッド映画も……たまにいいやつもあると思うけどあんまり好きじゃない。それからカントリーよりロックが好きだし、ずっと野球よりサッカーがしたかった。お前のやり方だけが自由のあり方だとおれはどうしても思えない」
緑の目をした彼。金色の髪をした彼。やたら太い眉の彼。
その彼が、俺より若い声で若い表情でそう告げて、しっかりとした瞳で俺に刃を向けた。

何故だって思ったよ。
何故だった思ったさ。
確かに制限もかけたよ。位置は欧州なのに、欧州とは出来るだけ関わらせないようにした。俺の味方か敵か、それしかないよ。
彼の土地を足掛かりにしたことも、それなりに土地を開発したこともあったさ。
それでも俺には彼が大切だったんだ。
たくさんたくさん、俺のものをあげたんだ。
美しい緑も、海も、俺以上に価値がわかっている奴なんていないと思ってた。
そう思ってた。

「俺は自由を選ぶよアメリカ。お前とは違う自由を」

そう言って彼は俺を打ち抜いた。
そこは俺に、君は実に馬鹿だな、詰めが甘いって言わせてくれよ。そう思ったよその時は。
おあつらえ向きに雨が降っていて、俺はイギリスの地に膝をついて泣いた。
彼に昔の記憶はないだろう。それでも知っていた。
俺だって知っていた。手を離れる。刃を、銃口を向ける。下手すれば追い越されてこっちが追い詰められる。
なのに、信じてしまったんだ、あの小さな子供が俺のまっとうな判断力をすべて奪った。
多いに泣いたよ。だって誰より好きだった。誰より確かに可愛がった。俺の子供。
いつも一番下だったはずの俺にできた俺の可愛い弟。

「俺はお前の弟じゃないんだ。あんたを育てた、俺の父さんでもない」

まるで言い聞かせるように彼は言った。俺は知っている。彼の心情を。そして信条を。
その苦味は昔俺の中にあったものだ。
分かっていても俺はこの弟が憎かった。俺が育てたんだ。俺がここまで大きくしたんだ。
俺が。俺の。やり直せると思ったんだ。なのになんでだよ!

「過去も全て飲み込んで俺は未来を行く」



それから幾つの日が廻ったかは知らない。

彼はますます「彼」に似ていた。彼そのものではなくとも彼に似ていた。
彼はまたpowersのひとつになっていて、馬鹿にされぬよう、軽蔑されぬよう、やたらマナーや、礼儀に、教養に、気をつけている。手袋の下の手は依然俺が握って、ひきつれていたものだと思うと胸が痛かった。
俺は最近、ついぞ過去ばかりを考える。彼は酒癖が悪くて、そんなときばかり俺に甘える。けれどまるで昔のように、優しい年月には戻れない。

俺の大切な弟はどんどん知らない青年になっていく。
俺を越えてどんどん成長していってしまう。

オーストリアが苦い顔をしてた。ドイツは首を傾げてる。たぶん、フランスもダメージが大きかった。イギリスがいなくて一番弱った国はフランスだろうけど、ドイツがいたから多分ギリギリ保ててた。新しい彼はイギリスであってイギリスでないのか、イギリスなのか。日本とは、それなりに仲良くしてたみたいだった。

それからさらに経って酔った彼が言った。

「抱かれたいんだ。ずっと好きだった。俺を育てたお前に一番憧れてた」

ネクタイをほどいて、俺の首に手をまわして腰をすりよせてきた時泣くしかないと思った。
君の絶望を知ったよ。
君に刃を向け、君の心を砕いた。それ癖、君を抱きたいと言った。俺のやったことは間違いなく暴力だったのだ。例え、君が失意と悲しみの中で受け入れてくれたとしても。それがいつしか、諦観と確かな俺への愛に変わったとしても。


「せめて一度」
そう言って彼は泣きそうだった。唇を噛んでいるのが君に似ている。いや君は君だね。辛い顔をする若い君は確かにひどく、色気があった。この痛みを俺は甘んじて受けるのか。拒否するのか。俺はいつ滅びるのだろう。


全てを思って俺は彼に笑い、彼を抱きよせた。愛する以外の術がない。
この呪いは痛みは、それでも俺だけのものだ。
確かにそれを抱いてまだやれるだけを生きよう。愛するしかないのは喜劇だがそれでもこの思いはだれにも渡さない。

いつか君が笑って俺を許し、俺をあの馬鹿けた天使のコスチュームで迎えに来るだろうから。君の所に行けるその日まで。