hallelujah 静かに、ひたひたと流れ鳴る水音を待つ。それが心の中の合図だった。 肉の脂が焼ける匂いと、煙くささがまざっている。そこに、大砲が跳ねる土煙りが加わるだろう。戦場で記憶に残るのは景色だけではない。まず、肋骨や頭蓋骨を震わせ、心臓まで響く「音」が襲いかかって来る。それから今度は匂いを思い出す。或る時は焦げ臭さ。或る時は泥。血の匂いはいつもその横にある。そこまで来ると、どれだけ目を閉じても鮮烈な風景が、景色が、暴力を伴って体と心の両方を襲う。時には、体に受けた傷の痛みまでも思い出す。痛いのは、肉を刺す感触か?それとも相手の太刀が抜かれる感触か?それもある。戦時の 興奮はその痛みを共にする。真の戦士にとって、痛みは友人だ。シャープはよくそう口にした。イギリスにとってもそうだった。 しかし、イギリスを苦しめたのは、そうした鮮烈な傷ではなく、膿だった。刺すのとはちがう、神経に触るような重い痛みが右の腿と腹からひろがって、足先どころか、頭のてっぺんまで届いた。熱がでて、それがこめかみ当たりを締め付ける。回りにも同じように負傷兵が寝転がっていて、呻き声をあげている。それでもここにいるものは幸福だ。死ぬことはないのだから。もっとひどい、生き延びる見込みのないものは、更に衛生状況の酷い環境で自分たち以外に誰にも見られることもなく、時間がとどめを刺すのを待つばかりだ。 硬いベッドの上で見る夢は、悪夢の汗をかかせるばかりで、大抵、ロクなものではなかった。たいてい、血の色をしている。それは鮮烈の赤ではない。レッドジャケットと同じあの色ではない。凝り固まった黒だ。焼けてただれる灰色だ。染みになるような乾いた茶色だ。汚し、汚される内臓の色だ。人の体、肌という、呼吸のための穴があいた袋に包まれ、命の呼吸を運んでいたその液体がひとたび、外の空気を晒されると、それは途端に悪夢の象徴となる。決して、鮮やかな色ではないのにも関わらず、それは深く心の襞をさす。ひとたびにそれに「慣れた」と思っても、今度はその「慣れた」ということにおののく。まるで高熱の時に感じる寒気と熱さとように。それすらも忘れ慣れたと思うのが、一番危ない。なぜなら、苦悩によって吐きだされないまま、蓋をされた光景とその時々の病重い感情が、どろどろ溶けあって腐りだし、吹きだした時には手に負えないようなこともあるからだ。 戦場で生きるうち、血はなんども、なんども、内側から噴き、または垂れ流されて、恐怖を誘う。しかし、水がなくなればそれをも飲むのだ。 過去は何度も何度も、身を襲う。振り切ることはできない。彼が、苦悩することが出来うる限り、後悔と自分にたいする侮蔑は弾丸と剣の重みをもって彼の腹を、胸を、頭を、四肢を襲うだろう。自分をなじるものは時折、自分の顔をしている。あるいはただの風景。あるいはただの匂い。あるいはただの音。あるいはその人物。畢竟、自分をくるしめるのは、自分の不完全さだった。彼らは、常に彼を、古くからある彼を、嘘つきと、卑怯者と、なじった。それを切ることも出来る。「報われよ」と受け入れることもできる。時に俯き、時に上げてその山を越え次の峠まで歩くのは踏みにじってきた自分の中にある矜持だった。この足を踏み出したくとも、今はその足が動かなかった。剣を突き刺そうにも、手さぐりで悪夢を抜け出すこともできずに、ただ汗をかいた。 亡霊は、赤いジャケットを着ている。亡霊は、青いジャケットを着ている。亡霊は、1シリングを手にしている。悪かった、と呟く。亡霊はアメリカの顔をしている。亡霊はエリザベス一世の顔をしている。亡霊は北部にただよう孤児の姿をしている。亡霊ははじめて殺した相手の顔をしている。亡霊はゆきずりに犯した女の顔をしている。亡霊は、奪うもの顔をしている。亡霊は、奪われたものの顔をしている。 やめてくれ。許してくれ。どうか俺を助けてくれ。灰の中に俺を生めないでくれ。気管に水をささないでくれ。雨を降らせないでくれ。火にくべないでくれ。死なないでくれ。奪わないでくれ。目に映るものから、安穏と安堵を探した。なかった。その手は空だった。まだ子供の頃から何か素敵な大きな愛や、世界を皆、動かせるほどの力が欲しかったしきっと手に入れられると思っていた。今でもそう夢見ている。けれど何も手になく、背負うものは増えていた。 何処に行っても誰もがそれをもっていない、とは言わない。或るところにはあるだろう。それは時折聞こえる、兵士たちの歌に。彼らが見つけた女の股から生まれたところに。たまたま多めにそえられたジャガイモに。 悪夢の中でこだまするのが声なら彼の意識を呼びもどしたのもまた声だった。 「眠っておられる。まだ熱はさがらん。もっとも死ぬことはないだろうが。昨日やっと目を覚まされたが、次がいつかは」 「そうですか、お顔だけでも拝見しようかと」 「まぁ、その程度なら構わんさ。だが起きても酒は飲ますなよ、全く誰も彼もすぐに飲みたがる」 薄眼をあけた。変わらず、血の匂いがする。スペインの、荒野と風のにおいは変わらない。しかし、そこに消毒液のにおいが混ざっていた。汗がぐっしょりと、シーツと寝巻にしみていて今すぐにでも取り換えたかった。吊るされたランプが微かに眩しく、イギリスは腕を額にやった。起き上がれる気はしなかった。 「おや、起こしてしまったかな。お水はいりますかな」 患者と患者を仕切るカーテンが開き、軍医がいった。イギリスは「頼む」といい、小さく首をたてにふったが、実際に口から息が出たかはわからなかった。医師は、シャープに椅子をすすめると、二人に一瞬だけ目をやって黙って出て行った。シャープはそれに腰掛けた。6フィートの体には小さい椅子なのか、どこかぎこちなく見える。目があった。最初、どちらも口をひらかなかった。看護婦がやってきて、水差しと、グラスを持ってきた。彼女がイギリスの体を起こして、水を飲ませるのをシャープは手伝った。一気に水を飲もうとして、イギリスは一度むせた。おちついて、と看護婦が声をかけた。まるで老人になったみたいだ、と思った。咳き込むとシャープが、少し乱暴に背中を叩いた。それでも喉をとおって、胃に落ちた水は、冷たくはなかったが、汗で水分が減った体を楽にした。飲み終わると二人は再びイギリスを横にした。看護婦は、水差しとコップを残して、部屋から出て行った。 先に口を開いたのはシャープだった。 「大丈夫で?」 イギリスは、いつもよくするように、頬の片側に笑みをつくった。 「生きている。なに、死にはしないさ。タマじゃなくて幸運だったくらいだよ」 うなされていた。それは知られている。だが、無視をしてくれるだろうと思った。きっと、この男にもうなされ、悔しさで髪の毛を掻き毟った夜が、剣を持ち引き金をひくあつい掌の皺を眺め拳を握りながら絶望した朝があっただろうし、これからもあるだろうから。 「この借りはフランスに兆倍にして返して遣らないと気が済まないな、もっともまだ歩けもしないが」 「なに、そう言えるようならすぐに回復しますよ。そしたら今度はレッドジャケットではなくグリーンジャケットを着て見ますか。ライフルの打ち方を教えてさしあげますよ」 「悪くないな。今度ウェリントン将軍に頼んでみるか。俺はあの無表情に嫌がらせするのが好きなんだ」 シャープは、吹きだしそうになって俯いた。 「言うなよ?」 「なんともいえません。上官への報告義務がある。これは酷ければ鞭うちの刑だ」 鞭か。それは痛いな、とイギリスはさも痛そうに顔を歪めて見せた。それから続けて、軍の様子や、敵兵の位置をたずねた。 まだ、膿による熱が体に回っている。微かでも笑えている、ならいい。見知った顔を目にして、弱気が少しマシになった。酷いと、死にたい、とこの口から出そうになる。出さないようにしている。ここでは、それだけは口にしてはいけないと思っている。同時に、あっさりとその言葉が言える人間を羨ましい、と思う。言ってしまいたいと、簡単に。いや、いえる筈だ。言ってその先でまだあるける筈だ。しかし、その自信がない。脆く、保つ背筋が崩れてしまいそうな気がした。とくに、この英軍英雄の前では、それを見せたくなかった。不遜な、若造の形をした、イングランドでいたかった。いやどうか、寧ろその腕を掴んで、とうとうと本音に近い弱音を吐いてしまいたいのではないか。まるで、弟が兄に甘えるように。シャープは、イギリスよりも年上にみえた。それが出来たらいいと思って、手を伸ばした。 「水ですか?」 「ああ」 シャープはイギリスの体をおこし、ゆっくりとブリキ製のコップに注がれた水をのませた。今度は、むせなかった。結局、イギリスは何も言わず、そのまま寝台に寝そべった。知っていた。この男も弱音を吐きたいだろうことを。北部の娼婦の腹からうまれた父なし子で将校にして貴族に認められず、兵卒出身にして兵卒たちと完全に一緒にはいられない。どこにもいけはしないのだ。彼の親友のハーパーですら、その苦しみを感じ取ることはできても共有することはできない。「故に」の悩みがまたそこにあるだろう。その孤独は何処へと持って行くことも出来ず、ただ自分と共にある。誰に預けることもできない。彼もイギリスも、自分が自分以外になることはできず、自分である限りどこにいっても同じのだという事を知っている点では同じだった。 この世は花畑であり、吐きだめであり、しかしその間にあるすべてがごっちゃになった、整理されない、不可解な場所だ。驚くことに、イギリスはそれが好きだった。そのままで、それが好きだった。 軍医所の外で微かに歌が聞こえる。話が途切れ、二人ともそれに耳を澄ました。シャープが言った。 「傷が治ったらラグビーでも」 「負けないぜ、ってやったらそれこそウェリントンに怒られそうだな」 イギリスは溜息をつき、シャープは肩をすくめた。時間だった。彼は窮屈そうに立ちあがって、それからイギリスの顔を見やった。イギリスはシャープの顔を見返した。精悍な、と言っていい顔つきだが若い割には皺がある。シャープはどうしたものか迷ったのか、暫くそのまま立っていた。イギリスは今度こそ、その手をのばし、腕を掴んでいった。 「シャープ」 喉をひらくと、言葉がつっかえつっかえになり、まるで俺らしくない、と思った。「俺らしくない」ことにした。 「こんなことを頼むのは、お前には重荷だと分かっている。俺がそんなことを思うのも筋違いだと分かっている。だが、どうか」 力は入らない筈の指で、厚い腕にしがみついた。 「どうか死なないでくれ。生きてくれ」 まるで子供だ、とイギリスは思った。まるで掴んでいるそれが希望であるかのようにすがっていた。イギリスは器用といえば器用なのかもしれない。バランス感覚は恐らく抜群のものがあったし、今日までのしあがってきた自覚もある。シャープもそうだろう。だが同時に彼らは不器用でもあった。時には楽も選ぶのに意地とプライドで泥につっこんでしまう。そしてその欲から抜け出せずにいる。だが、それより何より、こんな時どんな言葉を出せばいいのかわからない。そういう不器用だった。 シャープはぎこちなくイギリスの腕を外した。全く慣れないような仕草で、イギリスの頭をなでて、額に小さく口づけた。それからイギリスの肩を叩き、顔をみるべきか否か、できるなら恥ずかしくてみたくないが、そうも見られたくないといったような表情を浮かべてから、目線を外した。 「また来ます、それまでお休みを」 「ああ」 イギリスは緑のジェケットを着た背が去るのを見守った。あと約2インチ。俺もあれくらい絵があったらな、と思った。 再び目を閉じる。今の仕事は寝ることだった。遠くから微かに漏れるフィドロの音色。埃と消毒液の匂い。汗が冷えた。血が冷え、体が冷えた。 ひたひたと、水が落ちるのを待つ。 |