唐突に響いた、夢の名残りの音に振り返った。いつか見た夢。
 大陸の西から海をわたってすぐ。西の島のブリテン島。しかし、そこから北海に向かい、アイスランドとグリーンランドを過ぎ、さらに只管、西へと向かった先に、大陸があるという幸運者の伝説。
 金髪、緑の目。北欧の血。蛮族の声。

 海よ。幸運の海よ。
 どうか飲みこまれるな。


 目を開けた。イギリスは、頭を振った。
「どうかなさいましたか?」
「いや……、気が付いたら眠っていた」
 暗闇の中で、シャープが微かに笑ったのが聞こえた。
「眠るのが今の仕事です、サー」
 そうだったな。静かに彼は返した。まるで、海に沈んで、底から船に上がってきたときのように寒かった。その身震いを隠すようにして、イギリスは薄い毛布を握った。
「酒でも飲みますか?」
 シャープが気を利かせた。イギリスは断った。
「俺は、すこぶる酒癖が悪いんだ。今飲んだら多分ろくなことにならない」
「夢見でも悪かったので?」
「いいや」
 嘘をついた。ごまかせるとは思わなかったが、ごまかされたことにしてくれるだろう、と思った。
「ただ、昔の、大昔の思い出さ」
 

 ヴィンランド。夢を見た。遥か向こう国。


「聞かせてください」
 それは、良い声だった。兵隊向きの、低く太い、良い声だった。
「昔の話だ」
 イギリスは起きだして、ポツリ、と語り出した。
「この島の沿岸に海賊がやってきた。デーン人の連中さ。奴らは村という村を略奪していった。略奪はヴァイキングの仕事の一つだからな。金髪に白い肌をして、皆体は異様にでかかった」
 シャープは、黙ってそれを聞いていた。
「それより、遥か昔に、ここには全く別の、青い目の民がすんでいた。それをローマ人が侵略して、さらにそれをアングロサクソン人が打ち倒した。ヴァイキングは、その後釜ってわけだな。最後にやってきたのが、ノルマンフランクだ、もっとも、奴らは略奪ってほどのこともしなかったが。世の中が全部、キリスト教になっちまったからな。ほんの数百年で、ヴァルキリーの乙女達を信仰し、ヴァルハラを望む人間はいなくなっちまったってわけだ」
 イギリスは、その緑の目を静かに閉じて息をついた。
「シャープ、お前の瞳は、緑だったな」
 はい、と静かに答えた。

「だとしたらお前の先祖は北欧系だ。まぁ、俺の目も、緑なんだがな。北欧に行ったことはあるか?」
「ありません、そこに戦争があれば行きますが」

 頼もしいな、とイギリスは肩を揺らして笑った。まるで、火が揺れるようだった。
「イングランドも寒いが、それよりもさらに寒い。けれど、そのおかげでごくまれにオーロラがでる。あれは夜に出る虹のように、すごく美しいんだ。だからもし機会があれば、いってみるといい」
 シャープは、暗闇のなかで、それを見ることはきっと、自分の一生のうちにはないだろう、と思った。また、彼はキリスト教徒で、また、学もなかったから、ヴァルハラや、ヴァルキリーが何の事かもよくわからなかったが、なにか遠く近く、神聖なものであるように感じられた。

「その、ヴァイキングとフランスと戦争の日々に」
 今度はシャープが問うた。
「あなたは、何を夢見たのですか、サー。そのヴァルハラと言う奴ですが」
 イギリスは、声を出して笑った。テントの隙間から、小さく風が漏れて、音が鳴った。
「いいや、俺は生まれた頃からキリスト教徒だ。もっとも、ヴァルハラへの夢や、アヴァロンへの憧れや、がなかったわけじゃないが。これは中に流れる、血なんだろうな」
 彼は、出来るだけ優しい声を出して尋ねた。
「シャープ、お前、ヴァルハラを知ってるか」
 いいえ、と簡潔に答えた。知らないことが、無学をさらすようで、恥ずかしかった。しかし、イギリスは確かに笑ったが、それあざけろうとはしなかった。
「まさに戦い、まさに死んだもの戦士だけが、戦の乙女に連れられて戦士の館――ヴァルハラに住むことが出来る。そういう、デーン人の死後への信仰だ」
 シャープは寒くなって、毛布を少し、首の方へと引き寄せた。
「なら、俺は」
 言葉を切った。アルコールの熱い、ラム酒が飲みたくなった。
「そのヴァルハラとやらに行けますかね」
「お前は真の兵で戦士だよ。けど、戦場でそうあっさり死んでもらったら俺が困る」
 それは、イギリスの正直な感慨だった。

「何の夢を見たかと訊いたな、シャープ」
 イエス、サー。その返事を聞いてから、イギリスは口を開いた。闇には、とうに目が慣れていた。
「ヴィンランド。遥か昔に聞いた話だ。イングランドから先にずっと西へ行くと、そこにはもうどんな苦しみもない、緑の、豊かな土地があると」
 光のない先へ手を伸ばす。その虚空を掴んで、拳を握った。

「西の」
「ああ西の」
「それはあったのですか?」

 そして、たどりついたのですか。
 恐る恐るシャープは訊いた。あるながらば、行きたい、とシャープは思った。その土地に立ち、その草を確かめたいと思った。イギリスは、初めてシャープの方を向いた。顔は見えない。拳を握ったまま、イギリスは謳った。
「あった。そしてなかった。今のアメリカ大陸とその周辺の島々だよ。わらっちまうような。あそこはジェノバのバカ者が大洋にでるよりも遥か500年前にヴァイキングが入植を諦めた場所なんだ」
 拳を下ろした。
 シャープは今一度、訊いた。

「夢ですか」
「ああ、夢だ」

 見た目の頃、十八の青年。少し幼い位の顔立ちと、それに反した振る舞い。口から出る高貴をまとう言葉と、まるで父なしの子の如く灰に淀んだ目。
 シャープは、オーロラとヴァルハラの、二つの名を頭に刻んだ。
「寝ましょう。休むも、戦士の仕事です」
「そうだな、寝ようか」
 いい夜を。
 若い祈りの言葉を聞きながら、彼はどうしようもなく普通の青年なのだとシャープは思った。

 フランス軍まで、あと一日の距離であった。