パリはいつだって犬のクソが溢れている。そいつは、ロンドンで雨が降ると同じ確率で現れやがる。清掃員は週末からストライキらしいから、また余計に酷いことになるだろう。 そう言いたげな表情でジンを飲むイギリスの機嫌は、あまりよくないらしかった。フランスは、横でウィスキーを入ったグラスを揺らした。流し目でイギリスの様子を観察しながら、沈黙を続ける。こういう酒は不味い。だが、酒がなければ、やっていけはしないだろう。 なんでもない、今はなんでもないのだ。ウィスキーのアルコールで喉を焼きながらフランスは自分にそう言い聞かせた。 フランスには、時々、いまのイギリスが黒い羽根をしまっているように見える。それは、以前、フランスが例えたような心に生えるようなものではない。彼の羽根は、背中に生えている。肩甲骨の付け根から、大きな黒い翼が彼にはあったのだ――。フランスはそういう想像をした。今は、その羽根は彼の肋骨の中にしまわれている。そして、その黒さは、まるで地獄の釜で沸騰したタールのようだ。彼の、苛立ちがその本来の野性をむき出しにしているような気がした。肋骨の中で、彼の中の、狂ったような、何かそのドロドロしたようなものが、かき回されて煮えている。魔女の釜のようにグツグツとその音がフランスには聞こえた。 何への苛立ちだ――? イギリスは、グラスを飲み干すと「もう一杯同じものを」と無表情でバーテンダーに行った。フランスは自嘲した。彼は、自身が今抱いた疑問の答えを、知っていた。ならば、席を立って帰ればいいだろう、と思った。彼も随分、自虐的だ。マグマが噴火するのをフランスは静かに待つ。 我慢を彼はしている。そして、フランスはその悪魔を待っている。灼熱の牙が暴かれ剥かれるのを待っている。黒い羽根が拡げられて純粋な憎悪が自分に対して向けられるその瞬間を待っている。膨れ上がった殺意はあと、針をひと押しすればいい――。 全てが俺に向けられるその瞬間を。 「フランス」 イギリスは静かな声を出していった。 「あぁ?」 暄のある声でフランスは答えた。イギリスはしばらく何も言わなかった。彼の苛立ちの原因――それは自分に対する不信だ、とそうフランスは確信していた。今日はフランスの奢りにも関わらず、彼はこれっぽっちも楽しんではいない。ハロウィンのときの彼の女装ポートレートを勝手に写真に投稿したその謝罪、が今夜の名目だった。二度とつきまとわないという保証のもとで、彼を「手入れ」した1か月は、今思い出しても胸が空くような霞草の香がする。あれから、二人で飲むのは初めてだ。その話にのってきたのはイギリスの甘さかもしれないし、誠実さかもしれない。 イギリスは、どちらかというと酒を飲むと饒舌になる性質だ。その彼の無言が、彼のフラストレーションを表していた。フランスは、年上の余裕でもって微かに笑った。 「機嫌悪そうな顔してんじゃねーよ。せっかく奢ってやるつってんだからもっとうまそうに飲めよ。眉毛が増えるぞ」 「あぁ?お前が一人で飲むのが寂しいっつうから!」 「なんだよ。万年寂しがり屋はお前だろ?お兄さんには」 「俺お前を振った女の数を知ってるぜ」 「俺はお前がちんちくりんだったころの恥部を全部知ってるぜ」 カーン。まるで、いつものゴングがなる音がした。 あとはどっちが先かなんてことは覚えていない。「お客さん!困ります!」という声と、ヒューと喧嘩をはやし立てる口笛の音。慣れたボクシングの構えをして、フックを繰り出すイギリスと。それを避ける自分。全て体が覚えている。フェンシングで突きをするときのように相手の胸元に意識を集中して肘をいれる。それは確かに彼の両肋骨の間をかすったが、すっと一歩ひかれて望むほどの痛みは与えられなかった。イギリスは向かってくるフランスの勢いを利用して腕を引っ張るとそのまま床に倒し、その上にのってフランスの顔を殴った。 こいつ、油断してる。俺はもう大丈夫だって思ってるか、酔っ払って全部忘れてる。酒臭い息でのしかかる彼にそう思った。たぶんなんだかんだと相当な深酒をしたからきっと、勃つものは勃たないだろう。いや、それは問題にならない。そんなことは叶わない。この体は、自分のものじゃない。殴りかかってくる拳も、今逆に相手の顔を殴ろうとして下からつかんだ胸倉も全て彼自身ものだ。 皮膚から漂うアルコールの香り、とギラついた目。 ほっしいなぁ。 下からイギリスに頭突きを繰り出しながら、フランスは、そう思った。 フランス領になっちまえよ、お前。人の一世一代恥のプロポーズ断りやがってこの畜生が!お前なんか――お前の中にしまわれた黒い羽根が俺はこんなにも愛しいのに。俺ほど丸ごとお前を愛してやる奴なんてそういないぜ? イギリスがよろめいた好きに立ち上がり、口には出さずに、昔ながらの「このクソ野郎」という万感の思いを込めて、彼を殴った。また同じ重さを持ってイギリスは高い革靴にも構わずにフランスを蹴りつける。 罵りあい、お互いの姿と目を見据えて睨む。未だに、イギリスの黒い羽根が少しだけ羽根を広げようとしているのが見える。暴力性。昔の火の匂い。灯りが消えずに灯る。結局、店を追い出されるまで、その争いは続いた。今は、汚れた服を整えて、やはり雑言を吐きながら、二人並んで煙草に火をつける。フランスは自問自答した。これからどうする?俺はどうしたい。隣で息を吐くイギリスはフランスの心中を察しているだろうか。わからない。それが答えだった。 夜の風がコートの隙間を通って体と切れた傷口を冷やしていった。二人は、無意識か、触れない距離で少し近づいた。変わらない。白い煙を見つめながら、だからこそ、いまだ自分の心に燻ぶるものを自覚する。 ただそうだ。まるであの歌のように。 ハートに火をつけて。 |