それは、K教授、当大学のイワン・カラマーゾフとも綽名されるアーサー・カークランド助教授に関する仮説と考察である。つまりは噂。
 曰く、アーサー・カークランド氏は庶子である。なんでも、本国には、スコットランド人の兄と、ウェールズ人の兄と、北アイルランド人の兄と、さらにはもはや国籍も違うアイルランド人の兄がいるが、あまり連絡はとっていないらしい。
 そんなややこしい、家族状況だったが、この大学では彼にパートナーらしき教授がいた。庶子であるアーサー氏が世話になった人間の息子で、本来その気のなかったアーサーをその道へと引きずり込んだ。恐らく、それが件のフランシス・ボヌフォワ氏である。これが、とにかくドンファンだったらしい。そして、ある日、彼の担当していた教え子、アルフレッド・F・ジョーンズ、すなわち男子学生――がフランシス氏とともにある夏行方不明になってしまう。かくて二つの仮説がある。一つは、彼らは助教授を巡って、争い、結果カークランド氏の目の前で死んだというもの。酷い話である。それから、もう一つは、この二人は、同性婚をほぼ無条件で認める唯一の国、マシューの本国カナダへ逃亡したと言うもの。
 どちらにせよ、男だらけの三角関係。
 生産性がない、マシューは眠れぬ真夏の夜に苦しんだ。

 もし、本当にそうだとしたら、自分は、カークランド助教授の男とその男を奪った生徒の両方にそっくりという事になる。もしくは、自分を巡って死んだ男二人。
 逃げられたにせよ、死んだにせよ、そんな噂は笑いものになるところだろうが、K教授の場合、それが特に一部の女子に対して変に人気を誘っているであった。
 逆作用。
(そういえば、あの研究室の先輩も学部生を襲うとかなんとかいってたし!)
 ゲイなのか。そうなのか?
 しかし、そうだとすれば、助教授が、異性の助手と一緒に別荘ですごしたところで、何も問題もない筈ではないか。いや、でも実家に帰ってしまうとも言っていた。

 真夏――。
 ベッドの中で、マシューはとにかく真っ当なバイトがみつかることを祈っていた。



 しかし、残念ながら、上級サラリーマン程ではなくとも名誉と高給を誇る大学の助教授が斡旋したアルバイトよりも好条件なもの先ずみつからない。
 かくして、マシューは、8月の夕方に、バスを降りて、山道を歩いていた。バス停から降りて、真っすぐ行った、最初のコンビニで足を止める。もう少しすると、迎えの車が来る筈だった。
 そうして停まった車は、一台のBMW。

「よう、マシュー。今年はお前がお手伝いさんなんだってな」

 窓から顔をだしたのが、笑う哲学者、ドイツ人ギルベルト・ヴァイルシュミット氏だった。
「へ?なんで先生がここに?」
「俺もあそこの別荘には毎年お呼ばれしてるんだ。まぁ乗れよ」
 車内は、高級車に相応しく、マシューが少し嫉妬したくなるほどに快適だった。
「いいだろ?この辺は。下界の熱さを忘れて、小難しい本を読み思索にふけるのには最高の場所だ」
 思索という言葉から縁遠そうな人はそう言った。しかし、その声には幾分硬い響きがあった。
「先生」
「ん?」
「なんでカークランド教授は、僕を雇ったんでしょう」
 やかましい事で有名なギルベルトが一瞬、沈黙した。それこそ思索にふけってから、不意に現実に戻ったような口調で言った。
「いや、アーサーもその方がいいだろう、気が紛れる」
 マシューは、噂の事を追求しようかと思った。多分、この人なら、全てではなくとも、ある程度の真相を知っている。が、言うべきであったら、彼の口から語る筈ではないか。
 考えているうち、日が沈んだ。ギルベルト氏は、それ以外はやたら陽気に、時折声にだして笑いながら、マシューに何かと話しかけた。

「ほら、見えた、あそのこの山荘だ」
 降りて、マシューは、驚いた。そこは一面、桃の木だらけだった。それも実が、いまにも落ちんとばかりにたわわに生っている。
「おーい、アーサー!マシュー拾ってきたぞ、おい何処にいる?」
 返事がない。いないのか?ともう一度、ギルベルトが大声を出した。しかし、見つけたのは、マシューだった。
「先生……」
 ギルベルトが振り返る。
 思わず、マシューはその人を指差した。

 夕映え、夕日に光る大量の桃。首にはタオル、ズボンの膝の部分の部分には土がついていて、横にはゴミ袋。右手にスコップ。薄明かりの、教会の曖昧な世界で、線の細いその人はゆっくりと立ち上がった。
「――ああ来たのか」
 そして例の含み笑い。マシューは、この一種間抜けな光景を説明する言葉を持たなかった。桃と夕焼け含み笑い、土と雑草によごれたタオル。その相性の何と悪いことか。ナンセンスなコメディだ。
 そこは意地と根性の悪い、夢幻の入り口である。
 こんばんは。ようこそ。
 パラドックスにようこそ。だから横に立つ、ヴァイルシュミット教授までその景色にうろたえているのだ。

 夕闇が、あんまりにも喜劇的に不可解だったので、マシューはその日の夕飯を食べ損ねた。

(……お腹すいた)
 朝の庭を掃いていたが、耐えきれずマシューはしゃがみこんだ。育ち盛りをすぎただけであって、食欲そのものはまだ10代で衰えてはいない。
(このままでは、噂がどうのとか高給優遇以前に僕は飢えて死んでしまう)
 そうして溜息をつき、なんとか立ちあがろうと顔をあげた。あるじゃないか食糧なら。目の前は大きな桃。殆ど無意識にマシューはその果実に手を伸ばした。

「桃を盗むのか?」

 その人の声に、訪れるのは沈黙である。マシューは、まだ何もしてないよ相変わらず心臓に悪い人だと思いながら手を引っ込めて立ちあがった。
「おはようございますカークランド先生」
「おはよう」
 この助教授はいつも、その童顔から想像されるよりはずっと低い声を出した。マシューは思わず言った。
「先生……」
「なんだ?」
「もしかして、もう、気に入らない顔をなさった僕を雇った事を後悔なさったんじゃ……?」
 そう言うと、K教授は目を丸くした。ああ、この人は確かに眉毛が太いんだなと思い出させる、自然な表情で、すこしマシューは少し驚いた。眉毛教授は、何かに満足したように、ニヤニヤと笑うと、マシューが内心嫌がるのもむしして彼の頭をポンポン叩いた。
「いいや、お前はアルフレッドともフランシスとも性格まるで違うから」
 問題は、それがこの性格が破れ綻びている教授がどういう文脈で話しているのかということだ。だからマシューは質問した。大人しいといわれているが、開き直ると、彼は昔から強いのだった。
「じゃぁ、そのお二人は、一体、どういう性格をなさっていたんですか?」
 二センチばかり、自分より背の低い教授の眼を見てそう言った。
「そうだな、アルフレッドは好奇心がつよくて、いつもエネルギーに溢れてるタイプだ、目立ちたがりやで、実際によく目立つ奴だったよ」
「フランシスさんは?」
「あいつは、とにかく頭は切れた。俺とは違って社交的で回りにいつも人がいる、花があるというのかな」

 つまり、僕はいつもどことなく無気力で殆ど目立たずに、頭もぼんやりしてて社交的というよりは内向的で花が全くないということですか?
 言ってることの失礼さに気付いているのだろうかと思いつつ、マシューは口をつぐんだ。それが正しい処世術だと思ったからだ。
「まぁ、なんにせよ、これは実験だから」
「実験?数学でも実験があるんですか?」
 純粋な疑問のつもりで尋ねた。しかし、カークランド助教授は微かに笑うだけだった。しょうがないので、マシューも笑った。鏡の法則とかなんとかを思い出しながら。

「マシュー・ウィリアムズ。たしか、社会学の学生だったよな」
「はい、まぁ」

 しかし一年生で、なぜか大学が日本のようなシステムを採用しているせいで、この性格、もしくは人格が破綻した数学研究者の授業を受ける羽目になったのだけど。
 それに関して口に出すほどマシューは馬鹿ではなかった。
「何故、人間は完全な理論と公式を持ち得ないのだと思う?つまりは、社会において、完全に白黒、善悪、正誤をはっきりさせるような理論を」
 マシューは、後頭部とこめかみが、ずきずきするのを感じた。
「……さぁ、一年生の僕にはちょっと。なかなかおもしろそうな命題だとは思いますが、ただ朝から無理やり全てを二等分しなくてもいいというか、食事も済んでない学部一年生に対する問答としてはいささかクレイジーだというのは確かじゃないかと」
 それはすきっ腹が言わせた科白かもしれない。言ってから胃が、ずきずきする感覚を覚えながら助教授の顔を見やった。
「そうだな、たしかにクレイジーだった」
 じゃぁ言うなよ!思わず右手にもつ箒で助教授を殴り倒してやりたい衝動にかられたが、マシューはなんとかそれをこらえた。
  
「……ところで、ヴァイルシュミット先生は」
 それはごまかすための言葉だった。
「ああ、たぶんまだ寝てるんじゃないか?ゆうべ俺よりもだいぶビールを飲んでたから」
 らしい話だ、と思ってマシューは肩をすくめた。
「じゃぁ、申し訳ないんですが、起こしてきてくれませんか?その間に僕が朝ご飯をつくりますから」
「わかった」
 くるりと振り返っていこうとすると、マシューは一言呼びとめられた。
「もしも、食べたかったら、ここの桃は幾らでも食べてもいいぞ」
 そういう顔は、まるで幽霊のように見えた。