夏の日の悪夢は永遠と円環を繰り返す。抗議に時間をとられていたせいで、学生掲示板にはられていた、好条件のアルバイトが決まってしまったと学生生活課の受付担当にいわれてしまった。
 思わず、暴力的な気分になって、ふてくされながら虚空をなぐると、それが見事に人にぶつかった。
「あぶねぇな、学内でひとを殴るのはよくねぇぞ」
 出会いがしらにぶつかったのは、文学部哲学科の教授、ギルベルト・ヴァイルシュミット氏だった。昨夜、マシューが徹夜したその遠因である。大学には担任というものが存在しない。この大学は、日本のように、1年時は一般教養の単位を取得せねばならず、その間はクラス分けされた語学の教授が担任のような存在となる。マシューの場合、それがこの哲学科の教授で、彼はドイツ語を教えていた。
「しかし、なんだマシュー、床屋で髪切ったのか、さわやかになっていい」
 マシューが、一応美容院です、と言う間も許さず、わしゃわしゃとその頭をなでまわした。往来でやめてくれ、とマシューは思った。
「……よく、僕の名前を覚えてますね」
 暗い声でマシューは言った。彼は産まれてこのかた、目立ったことがないので、名簿もなしに教授が顔と名前を覚えられるなど思ってみなかったのだ。
 ヴァイルシュミット氏は、静かな哲学的思索など到底似合わぬ様子で、笑い声をあげると、俺は頭の出来が違うんだよ、といった。
「今まで忙しくてな、これから飯を食うんだ。おまえ、お供する気はないか?」
「……それはおごりですか?先生」
「なんだ、お前、意外としたたかだな」
「今日は少し、気が立ってまして」
 哲学者は少し悩んだようだが、これもまた縁と考えたようだ。「いいぜ、飲み物くらいならおごってやんよ」と言った。気の良さは、彼の美徳だった。

 それが、この日、マシューに起きた唯一のよい出来ごとだった。ギルベルト・ヴァイルシュミット氏は、世間一般のイメージからする哲学者にしては、やたらと明るい人間で、寡黙というよりはよく喋り、逆にマシューはいつもののんびりした自分を取り戻すことが出来た。
 しかし。
「どうしましたか、先生」
「ん?」
「なんか、ずっと僕の顔をみてるから」
 そう言うと、ヴァイルシュミット教授は珍しく、戸惑ったような顔をした。頬をぽりぽりとかきながら、目をそらして言った。
「いや、知り合いに、似ててな、その」
「……僕はそんなに、似てますか、アルフレッドさんと、フランシスさんに」
 その言葉の半ばで、ヴァイルシュミット氏は大変驚いたような顔をした。
「誰から聞いたんだ?」
「数学科の、カークランド助教授に」
 そしてこれまでの顛末を話すことになる。ヴァイルシュミット氏は、神妙な顔をして口を開いた。
「アルフレッドは――」
 理学研究科の修士の学生だった。数学を専攻していて、特に多次元にか関する研究をしていたらしい。それで、彼の担当教官がその年に准教授になったカークランド氏の下についた。そして、その次の年の夏に、彼は突如として姿を消した。
「……まさか、K教授と仲が悪くて失踪したとか」
 そういうと、ヴァイルシュミット氏は、首を振って否定した。
「まぁ、対立することはあったけどな、あの二人は元々、親子と言うか、とにかくアーサーが世話をしていたんだ。喧嘩もしょっちゅうしてたが、今の教え子のセーシェルともよくしているような、そんな他愛もない奴だったよ、あいつは素直じゃないだけで、なんだかんだ言って面倒見がいいんだ。寧ろ、アルフレッドの事は、大切にしていたよ、子供のころからな。アルフレッドも口ではなんだかんだいいながら、多分アーサーの事をそれほど憎んじゃいなかった」
 そうなのだろうか。その割には、マシューの前で、その名前を口にしたときのカークランド氏の眼はあまりに険呑だったように思う。
 それに、言葉の割には、哲学者の口調はあまりに重いではないか。
「じゃぁ、そのフランシスさんていうのは」
 哲学者は、本来の職業に相応しく溜息をついた。普段の彼にはあまり見られない、歯切れの悪い口調だった。

「フランシスは、俺と同じく文学部の教授だった。専門はフランスの文学と美術。年はアーサーより3つ上で、半分兄弟というか、なんつーかな。同じ年にどっかいっちまって手紙も寄こさなくなったが」
 もう一度、哲学者――ギルベルト・ヴァイルシュミット氏は溜息をついた。
「お詳しいんですね」
「大学の同期なんだよ、それでちょっと」
 最後まで、歯にものが挟まったような言いようだった。マシューは何となく訊かなければよかったと思いながら、学内で、K教授関して流される、ある教え子とその師匠のまことしやかな噂と、まだ大学を受験する前、高校生だった頃に、この大学の教授と生徒が行方不明になったという話がTVでとりざたされていたのを思い出した。
「――まぁでも、あいつのことだから、きっと単位は来るとおもうぜ。そろそろ行こうか」
 最後に明るく、励ますように教授はそう言った。


 炎天下である。影は小さく、黒く濃い。キャンパス内のアルバイト掲示版を見上げながらその賃金の低さに、マシューは内心うんざりしながら、手で顔を仰いだ。
「割のいいバイトは見つかったか?」
 その声に振り向くと、例のK教授が立っていた。マシューは反射的に、愛想笑いをつくった。
「いやぁ、どこもなかなかいい条件がなくて」
 それは事項の挨拶のようなものだった。言いながら、アルバイト掲示版が、教授塔へいく通りにみちにある事を呪った。
「そうか、そんなもんだよな、たしかに。じゃぁ、俺からいいバイトを一つ紹介しようかな。三食ついて高給優遇だ」
 へ?とマシューは一瞬喜んだ。なるほど、これは、笑う哲学者が言うとおり、決して悪い先生ではないのかもしれない。プロフェッサーアイブロウはさらさらとメモを書くと、それを契って、マシューに渡した。そこには、随分と山奥の住所が記されていた。
「気が向いたら、そこへ来ると言い」
 教授は、例の含み笑いをした。
「ここは?」
「うちの別荘。毎年、夏はここですごすんだ。手伝いの人が年をとって昨年、やめてしまったから、家事をする人がいるんだよ」
 Oh, My God.マシューは心の中で天を仰いだ。
「……で、でもご家族とかもいらっしゃるんじゃ?」
 たらり、と汗が落ちるのを感じた。
 当大学のイワン・カラマーゾフ氏は、うつろな目で、家族?と首をかしげた。
「家族と、家族らしきものは最近、近くに見当たらないんだ」
 なにかもやもやと胸の奥がすっきりしないのこらえながら、マシューは踏ん張った。
 ――それは教授に関する仮説と考察である。
「で、では、あの先生の研究室にいらした、可愛らしい助手の方は」
「マシュー、教え子の女生徒とその担当教官が別荘になんていったら、周囲はどうおもうだろうな」
 ゴジラが、あのテーマ音楽で近づいてくるような気分だ。マシューはそう思った。しかし、眉毛教授は気にしなかったようで「それにあいつは、この夏は実家にかえるんだ」と言った。それから、ふ、と笑って、なぜか彼はくしゃくしゃとマシューの頭を撫でた。
「まぁ、無理にとはもちろん俺も言わない。気が向いたらで構わない。書いたとおり、割は悪くないと思うぜ、課題にも集中できるしな」
 軽く手を振って、助教授は去っていた。マシューは嫌な汗を垂らしながら、振り返ってもう一度、掲示板を見た。マシューは釈然としない胸の内を忘れようと努めた。出来れば、カークランド氏に提示された条件を上回るものを必死でさがしながら。