夏の惰眠は耐えがたいものである。なぜならばそれは、現実と夢想の連環が永遠の往復の循環を繰り返し、すべての忘却を奪う。忘却こそが、人を狂気から引き離すものである。故に夏の惰眠は最悪である。
 大学特有の木製の長机につっぷして、寝ていたマシューは、そんなところで目を覚ました。

(昨日徹夜で哲学のレポート書いてたから、変な夢見ちゃった……)

 のっそりゆったり起き上がって、マシューはうたたねで痛む背なかを座ったまま椅子にもたれて伸ばした。あくびを噛み殺しながら、よだれのついたノートをティッシュでふいて、再び右手にペンを持つ。
 週明けから、テスト期間に入り、学生が時間はあるのにもかかわらず落ち着かない二週間が過ぎると、あとは長い夏休みが待っている。  しかし、そんなこととは関係なく、今、マシューは彼にしては珍しく少々不機嫌だった。
「ベネディクト・アンダーソンが指摘した通り、国民というはすなわち想像の共同体で……」
 大学の授業では、先生はあまり板書をしない。場合によっては、パワーポイントとそのコピーを用意してくれる先生もいるが、まれである。マンモス大学のマンモス授業になればなるほど、その傾向は強い。つまり、大概の先生は、予備校の教師とちがい、授業そのものが上手くないのだ。とはいえ、世間からの冷たい目および「勉強が好きなのね」という嫌味に耐えながら象牙の塔で学を修めただけはあって、彼らの書くものや、いうことにはそれなりの含蓄がないでもない。
 大学の授業は雑学だ。マシューは半分、そう割り切って授業を受けている。が、根がまじめなので寝坊して遅刻したりさえしなければ、きちんと授業に出席してノートを取っている。
 チャイムが鳴って、昼休みになると二人の生徒が声をかけてきた。

「マシュー、髪切ったんだね!一瞬気がつかなかった。けど似合ってるよ。なんか前よりさわやかになった。明るい感じがする」
「ありがとう」

 言ったのは、同じ一年生のフェリシアーノだった。マシューは、以前はかるく結べるほど髪が長かったのだが、夏の暑さに切ったのだ。とはいえ、それでもフェリシアーノよりも少しくらい長かった。
 なにか、いつも楽しそうなフェリシアーノは続けて言った。

「こちらこそ数学のノート貸してくれて、助かったよ」
 マシューは顔を暗くした。
「ごめんね、どうにもお役に立てなくって」
「なにいってるの!おかげで僕もルートヴィヒもAが来たよ!」

 え?

 マシューは思わず聞き返した。
「礼には軽いんだが、カフェテリアで昼をおごろうと思うんだ」
 彼らが受けている一般教養の数学は二時間目にある。フェリシアーノが遅れるのは単なる寝坊だが、マシューよりもさらにまじめで堅く完璧主義の気も疑われるルートヴィヒがこの授業に何回か欠席してしまったのは、朝のアルバイトが都合で少しながびいてしまったとき、それから未成年飲酒によってまれに二日酔いになることが原因と思われた。
 ――念のための、蛇足。
 そんなことは置いといて、マシューは二人の話を聞いて、ますます不機嫌になったのだった。





 抗議してやる。

 同学年の友人と一緒にランチをとったあと、マシューは似合わないことに大股で勇ましく人々の波をすり抜けていった。
 なんで僕のノートを見て書いたレポートがAで、僕のレポートがF(不可)なんだ!内容もたいして変わらないじゃないか!おかげで2単位がパーだ。
 レポートにおいて、Aとうのは「すんごいよろしい」を意味する。そしてFは、もっともこの評価は大学によってDであったり、または不可と言葉で表したりもするだろうが、少なくもこの場合「よろしくねーから単位なんてやんねーよ」ということを意味していた。なので、所定の単位を得ないと留年してしまう学生にしてみると、大変もらいたくない文字なのだ。
 そうして、彼はK教授のもとに向かった。あるいは当大学のイワン・カラマーゾフ。学部学科を問わず、人気があるようなないような、ともかく名は知られている。理工学部数学科の、正確にはアーサー・カークランド「助」教授。はじめて、二つ名のほうを聞いたとき、マシューは「K」しかあってないじゃないかと思った。
 30代で助教授なのだから、どうやら優秀らしいということは文学部でもわかる。なにかと嫌味で、よく含み笑いが目撃される。それから、マシューは、これは皆目、確認していないのだが、自然科学系だけでなく、人文社会学系の、なんでも哲学の修士も持っているらしい。イワン・カラマーゾフという二つ名はおそらくこの辺りに由来する。
 もっとも、これは、かの鉄の女と言われた女性も化学と法学両方の学位をもっているというから、優秀な人間というのはそのようなものかもしれない。
 しかし、マシューがこの授業をとったのは別に、そんな優秀な人間の講義を取ろうと思ったからではない。いや、それもゼロとまではいわない、が、しかし、この助教授の授業は他の大学教授の授業にくらべれば準備も万端で、且つ生徒の評価は公平で、きちんとやっていれば単位は確実にくると聞いたからである。こうしてFを食らうためではない!
 そうして、彼は扉をノックした。例え、教授棟に入り、受付でアポイントメントをとった時点で若干の胸騒ぎがしていたとしても、もう後には引き返せない。

「どうぞ。開いてるよ」
「失礼します」

 金属製の扉は重たく、きぃと音を鳴らした。白衣を着たK教授が、おあつらえ向きに窓のそば座っていて、逆光になって顔が見えない。 ――どうして、数学なのに白衣を着ているのか?それは誰もが思う疑問である、が同時に彼に限らず、よくある話でもあった。
「本だらけで申し訳ない、好きな所にかけてくれ。俺は紅茶派なんだが、コーヒーのが好みかな?」
 教授、いや助教授は立ちあがって聞いた。コーヒーを、というと、彼は紙コップに入った熱いコーヒーを渡してくれた。冷房が利いているので、それでよかったかもしれない。
 その余裕がどうにも嫌味な「インテリゲンちゃん」でマシューは少し気圧されながらも果敢に口を開いた。

「それで、その、僕が申し上げたいのはですね」
「俺の採点基準が気に食わないということか」

 マシューの目の前の机に足を組んですわり、彼はそう口火を切った。
「気に食わない、という言い方がこの場合適切かどうかはしりませんがが、僕の採点に関しては疑問を感じます。ここに優をもらった友人のレポートがありますがそれと比べてもなんら遜色はな」
「ストップ」
 白衣のK教授はマシューの人生がかかった訴えを止めた。
「マシュー・ウィリアムズ君、だったな。そもそも学問とは他者と比較することに意味を持ちえるものかな?」
 マシューはキツネにつままれたような顔をした。いきなりの教理問答はいささか暴力的ですらある。
「じゃぁ、カークランド助教授は、ひとりひとりを相対的ではなく、絶対評価したと、そうおっしゃるんですか?」
 声に憤慨の色がまじったのはいなめなかった。しかし、彼はいつもの含み笑いをするだけだった。
「さてね、それはともかく、俺は利己的な人間だが、基本的には良心に基づいて、審査しているつもりだよ」
  「じゃぁ、僕のレポートに何の問題があるのか教えてください、今後の学問のためにも」
 いささか挑発的に、マシューは言った。

 ――火曜日の、カラマーゾフ家の次男は暗い緑の目でとんでもないことを言った。

「顔が」
 その音節が切られた時、マシューはなんとも間抜けな顔をしたにちがいない。
「そ顔が気に食わない」
 マシューの頭にクエスチョンマークが大量に浮かんだ。そして抗議した。かのウィンストン・チャーチルはネバーギブインと言った。ここで屈しては、この大学はくさった教授を野放しにすることになるだろう。
「そ、それは、そんな!確かに僕の顔はハンサムなんかとは程遠いですが」
「いいや、なかなかどうしてプリティな顔だよ。彼女に言われたことはないのか?」
 紅茶を飲みほすと、K教授は机から降りて、一歩踏み出した。マシューはおびえた。褒められたらしいが、なんにも嬉しくなかった。  教授の右手がすっと、マシューのほうに向かって延びた。あわやクビでもしめられるかと思ったが、それは頬にふれた。なんだこの手は。
 マシューは2単位をほっとけばよかったと思った。
「そうして髪を切ると、なおさらあいつに似ている。もっとも切る前も奴に似ていたが」
 瓜二つだ。
「……に、似ているというと、その、どなたに」
 思わず微笑んでしまったのは学生という弱い立場のせいかもしれない。
「アルフレッド・F・ジョーンズと、フランシス・ボヌフォワに」
 しらねーよ!マシューは天を仰ぎたくなった。
 しかし、都合のいいことに、その天から、ではなかったが、ノックの音共に清き天使があらわれた。

「……何やってるんですか眉毛教授」

 プロフェッサーアイブロウ。彼女は確かに、目の前の彼のことをそう呼んだ。マシューは、今の状況も忘れて思わず噴き出しそうになった。
 その女性は、白衣を着てここに現れたことからして、おそらく彼の研究室の生徒だった。実際、彼は彼女に向かって呆れ混じりにこういった。
「相変わらず担当教官にたいする礼儀がなってないな」
 マシューは魔の右手から解放された。
「昼間から学部生を襲うような教官に持つ敬意はありませんよ」
 彼女は、ちらり、とマシューのほうをみやった。そして、酷く驚いたような顔をして、無言で助教授の方を振り返った。
「教官」
 その声には、むしろ気遣うような色があった。その教官は首を振った。
「彼はレポートの採点基準について質問しにきただけだよ、名前はマシューというらしい、レポートに書いてある」
 それを聞くと、セーシェルと呼ばれた彼女は、マシューに向かって「ちょっといいですか?」とたずねて、マシューの手から二つのレポートをとると、パラパラと目を通して、言った。
「先生、誰かと顔が似てるからって、この採点は、どうかと思います」
 彼女は、マシューの気持ちを代弁した。彼女いわく、プロフェッサーアイブロウは、お前の口出すことじゃないと厳しい口調でいった。が、しかし、彼女の手から、マシューのレポートだけを受け取ると、こうも口にした。
「とはいえ、学生が勇気持って真剣に抗議に来た以上、俺にはこのレポートに目を通し、誠実に採点基準を明示する義務がある。そういうわけで、しばらく預からせてくれないか」
 カークランド教授はそう言った。なら最初からそうしろよ!思ったが言わなかった。
マシューは一礼をして、ルートヴィヒのレポートを受け取ると、ほとんど逃げるようにして、その場から去った。
 ――まるで白昼夢。それも悪夢だった。