「完璧に風邪だな」 体温計を睨みながらイギリスは言った。熱で少し、頬が上気したドイツが潤んだ目で、イギリスを見た。イギリスはまるで子供にするように、日本発の熱覚ましのシートをドイツの額にペタリとはる。 「ったく、この季節でもアホみたいにTシャツ一枚だから風邪ひくんだ。はちみつ紅茶を入れといたから、欲しくなったら飲め。温まるぞ」 ナイトテーブルに銀色の水筒と水、英国では冬の風物詩になっている風邪薬、レムシップの緑色をした紙箱を置いた。 通勤前、カーキ色のトレンチコートを着てふんぞりかえる彼に、ドイツが「時間は大丈夫か?」と聞くと「やべ」と慌てた。パリではないが、いつ何処の交通機関がストライキになるかはわからない。 「じゃぁな、俺は行ってくるからな!何かあったら携帯に連絡しろ。一応、早めに帰ってこれるようにするから。大人しく寝てろよ、わかったな!」 ドイツがこくり、と頷くと慌ただしく、イギリスは出て行った。 俺はお前の弟か!と内心思ったが、口には出さなかった。 1月、とある新聞紙の記事は”Winter Vomiting bug and flu put NHS under pressure”ノロウイルスとインフルエンザが大流行。英国国営医療サービスはパンク状態」という見出しがあり、インフルエンザとノロウイルス患者は可能な限り病院には来ないように呼びかけていたのを思い出す。なら、もしこの風邪でなくインフルエンザだったらどうすればいいんだと若干不安に思いながら、ドイツは体を起こして銀色の水筒の中に入った蜂蜜入りの紅茶を飲んだ。甘い。課題のことを思うと、少し憂鬱だが、熱のある頭で難しい英語の社会学の本を読む気にはなれなかった。 布団をかぶり直し、少しウトウトしながらドイツは、まだ英国に来たばかりのときを思い出した。 社会学の単位をとりたいのだ、というと、イギリスは不思議そうに言った。 「そんなん、ベルリンでもミュンヘンでも勉強できるだろうが」 その通りだった。ドイツが誇る、知の巨人カント。社会学の黎明期にあたって近代が何故西欧においてのみ発展したかを研究しつづけたプロイセン生まれのマックス・ウェーバー。社会学の巨人はドイツ出身者が少なくない。イギリスはそれを指摘したのだ。 しかし、ドイツにしてみれば、それほど不思議なことでもない。 何故近代ドイツで社会学が発展したか。それはドイツが英仏に後れを取ったという事実が背景にある。イギリス経験論、フランス合理主義、そしてドイツ観念論。思想が反映するのは、その歩んだ歴史だ。真っ先に産業革命を起こしたイギリスは、先駆け故に、近代的精神を外から学ぶ術がなかった。前例がなければ自身の「経験」――世界初の近代的発展の過程とその中で生み出された事実の集積から世界を分析する外なかったのだ。それに対し、フランスの近代は、フランス革命が齎した。革命が国民の意思と共に行われたが故に、社会と意識の発展は同時だった。改革の意志。その「理性」こそが、判断の根拠。近代は西欧のみが発展した、という説をとるなら、西欧とは究極、英仏のみを指すのかもしれない。しかし、そこに待て、と割って入った国があった。プロイセンだ。英仏が覇権を争った時代に、遅れをとったドイツ地方の人々の未来を危惧したのはプロイセンだった。ドイツの社会学発展はその統一を背景に進んだと言っていい。そう書くと、欧州の不憫、プロイセンはカッコいい知的な兄貴だが、現実の彼は「1人楽しすぎるぜ、あははは!」であることは忘れてはならない。しかし、ドイツ統一の為に、プロイセンとドイツは英仏の社会を学ぶ必要があった。だからこそ、ドイツの鉄人カントは、イギリス経験論とフランス合理主義のどちらも批判し、認めて統合したのである。 そうした経緯を考えれば、ドイツがイギリスで社会学を学ぼうと考えるのは、寧ろ自然な流れとすら言えるのではないか?と思う。社会学の分野でも、都市社会学や、カルチュラル・スタディーズ(文化研究)などは、イギリスが出発点だ。単位をとったからといって、残念ながら教授になれるわけでもない。こうした勉学は、ほとんど趣味だ。せっかくの長い人生。別の国で過ごしたっていいだろう。自費だが、せっかく上司からのお許しもでている。可能ならイタリアはかのボローニャ大学で過ごしたいとも思ったが、なぜかドイツはイタリアに居続けることはできない体質なのだ。 今になってはそれも良かったかもしれない。ウトウトしながらドイツは自分では気づかぬうちに、微笑んだ。セントラルヒーティングのツンデレ、いやデレツンぶりにイラッと来ることはあるが、ジャガイモにビール。いいことだ。 それに、風邪をひけば、はちみつ紅茶をいれてくれる家主もいる。 今日も英国の曇天の下、冬の乾燥した風に吹かれながら出勤した家主、欧州で労働時間最長を誇るこの国、その本人も、ドイツから見れば実によく働く。が、収入面に不安があるわけではないらしく、働かないと落ち着かないらしい。イギリスの主な収入は、各地に所有しているというハウスの家賃収入で、ドイツもイギリスと同居する前は、彼の別宅を間借りしていた。イギリスはリストラに怯える日々を送りながらも、何かとドイツの世話をやいてくれる。食費をタダにしてくれたのには感謝せねばなるまい。休日になれば、ドイツを交えて、地元の仲間と一緒にサッカーをすることもある。パブでは何一つ気兼ねせず酒を飲む。暮らしてみると、存外、気があうもので、平気でエロ本の貸し借りもする。いいことだ。いいことか? そうして、うつらうつらしていると、いつの間にか寝入ってしまった。起きたのは声がしたからだ。 「I’m home!」(ただいま!) 響く声に、うっすらと目を開けた。頭を振って時計をみると昼の2時を指している。本当に早く帰ってきたのだ。大丈夫だろうか。そのせいで解雇されないだろうか?ドイツは、少し心配になりなった。最近、漸く「ただいま」を言い慣れたイギリスに「You’re home. How was the day?」(おかえり、今日はどうだった?)と言うために、ドイツは重たい体を起こして、下へ降りた。少し、汗をかいていた。 「おかえり、今日はどうだった?」 ドイツが聞くと、キッチンに居たイギリスは、開口一番、「馬鹿!」と怒鳴った。 「起きるな、寝とけって言っただろ。風邪ひいたら、とにかくじっとしておくのが一番だ」 いつもはオールバックにしている前髪がドイツの額にかかっている。その髪の下の額に、イギリスがすっと手をのばした。冷たい手だった。イギリスは、自分の額と温度を比べながら「やっぱまだ熱あんな。眼も赤い」と言った。 「しょーがねぇから、今日は俺がメシ作ってやるよ。いつも作ってもらってばかりで悪いしな。どうせ昼飯食ってねぇだろ?あ、勘違いするなよ!いつまでも同居人に倒れてもらったら俺が迷惑なだけなんだからな!いいから、お前は寝とけよ。じゃなきゃ大人しく向こうで座っとけ」 そうウキウキと言った、イギリスの向こう側には「やる気満々なんだぜ」と言わんばかりの袋が満載だった。 この状況を、俗にこう言う。 死亡フラグと。 熱冷ましのシートとは別の効果で体温が下がるのを感じたドイツは無言でキッチンに進もうとした。 「あ、こらてめぇ!」 「いや、飯は俺が」 体を引きずり、声を枯らしながらも自身の身を守るため、がんとしてドイツはそう主張した。 「寝てろつったろーが!ばか!」 「いや、もう充分だ!だから飯は…」 「俺だって病人食ぐらい作れるっつーの!」 「本当か?俺が教えたストップウォッチレシピに無いが、大丈夫なのか!?」 「……そりゃお前の好みの味にはなんねーだろうけど!」 「Feed a cold and starve a fever!(風邪には餌をやれ。熱は飢えさせろ)熱がある時は何も食わないのがイギリス流だろう!?」 そうだった。イギリスは、頑張ろうとしたのを病人に全力で否定されて、ちょっと涙目になりながら沈黙し、「じゃぁ、剥いたリンゴなら食うだろ」とドイツに訊いた。それならドイツも異論はなかった。 「ちゃんと厚着はしてるな。寝疲れたんならテレビでも見とけ。おでこのクールン・スースも変えてやるから」 イギリスは「クールン・スース(冷やして冷ます)」、という役割そのままを英語名を持つ、日本の某製薬会社開発のジェル状の熱冷ましのシートを冷蔵庫から取り出すと、ドイツの額にあるそれを剥がして、ぴたりと張った。ほっぺに、いつものように親愛のキスをして、まるで幼い子どもに言い聞かせるように笑った。風邪で紅潮した頬が、一層、赤くなったのを気づかれないよう祈りながら、ドイツは小さく「わかった」と呟いた。その様子に、イギリスは満足そうに笑った。 リヴィングのソファで大人しく丸くなりながら、先ほどキスされた頬に触れた。TVもつけているが、耳に入ってこない。キスの習慣は、欧州共通と言っていいが、イギリスは、イタリアやフランスのような「チュー大好き頬ずり大好きスキンシップ大好き所」なタイプではないが、親愛のキスならドイツ相手にも良くする。 こ、これは、奴からしたキスだ。カナダからキス禁止令が出されたが、この場合についての言及はない!寧ろ止めたら不自然だろう?イギリスも傷つくに違いない。それに俺は、アメリカやカナダの話に一度もJa!ともYes!とも言っていない。強いてうなら、答えは全部Nein(いいえ)だ。ああでも、奴は俺をどう思ってるのだろうか?ただの同居人?いや、それならキスはしないだろう。家族?それはアメリカやカナダだろう。友人?それにしは、年上ぶるような……いや年上か。じゃ、こ、こ、嫌落ち着け俺、まだそれはない!! 比喩で無く、熱で浮かされた頭でぐるぐると考えていると、当の本人から「ドイツ」と声がかかった。 「なんか、うんうん唸ってってけど、大丈夫か?やっぱ、しんどいんじゃねぇか?」 振り返って「だ、大丈夫だ」と言った。説得力をなかったようで、トレイに何か飲み物とリンゴが乗った皿をもった彼の眉間に皺が寄った。 「あんま無理すんなよ。ほれ、食え」 イギリスは、ドイツの横に座ってフォークの刺さったリンゴを差し出した。驚いて、それにパクリ、と被りつくとフォークを持つ手を離して、イギリスが面白いものを見るように声を出して笑った。 ドイツは、デザートようの小さなフォークの柄を持って、シャリシャリと音をたててリンゴを食べた。イギリスも、何切れか、同じ様にそれを口に出した。マグカップに入った飲み物からは、湯気が出ていて、何か甘い香りがした。 「……これは?」 「エルダーフラワーの蜜を溶かしたホットドリンクだよ。ウチじゃ風邪ひいたときによくやる民間療法なんだ。切らしてたから、途中で食品店によって買って来た。レムシップよりは、そっちのほうが美味いだろう?」 それは、温かい味がした。ふーふー、と冷ましながら少しずつ飲む。イギリスも、同じようにそれを飲んだ。イギリスが訊いた。 「夜、何か食いたいものあるか?」 「いや、飯は」 回避したい、と言う言葉を飲み込んだ。食欲がないのだ、と言ってごまかすとイギリスは「ふーん」とつまらなさそうに言った。 「強いて言うなら、ビールが飲みたい」 イギリスが、呆れたように、お前なぁと言った。しかし、立場が逆言したら、必ずイギリスはドイツと同じことを言うだろう。 「仕方ねぇな、夜になったらホットウィスキーに卵いれた奴でも作ってやるよ」 かいがいしく世話をしたがる彼を見ると、すこし動悸が早くなる。ああ、しんどい。今年の風邪は粘着質のようだ。しんどさにまかせて、コテ、とドイツはイギリスの肩にもたれかかった。自分に比べると、薄い肩だが、しっかりとした骨の感触がした。 もう少し、もう少しと思ったけれども。 「馬鹿!おい、眠いならこんなとこで寝るな。ちゃんとベッド寝ろ!」 甘えろ、というイギリスがそう怒鳴るので、ドイツは諦めた。なんなら、ベッドまで連れてってやろうか?とイギリスがからかうと、こくり、とドイツは頷いた。イギリスは虚をつかれて眼を、まん丸くしたが、すぐに照れたように笑って「しょ、しょうがねぇなぁ」と言った。 「慣れない国で病気になって不安なのはわかんねぇでもないけど、お前、案外甘えたなのな」 ベッドに横たわるドイツの髪をすきながらイギリスは言った。それを言うなら、横に座ってかいがいしく世話を焼くイギリスは、世話焼きだ。 触れられた先から、熱が引くような気がする。ドイツは静かに目を閉じた。指先の感触が、あんまりに心地良かったので、ドイツはすぐに眠ってしまった。 イギリスは、ドイツが寝息を立てはじめたのを確認すると、ポケットから携帯電話をとりだした。フランスのアドレスを呼び出し、欧州共通で風邪によいとする「チキンと野菜のスープ」のレシピを送るよう、メールした。 その後のドイツの運命は、ドイツとイギリスのみが知ることになるだろう。 |