The hands that feed――餌づけの手―― 楽屋の裏は、手洗い所になっていて、そこから漏れるアンモニア臭にアーサーは鼻をくすぐった。トイレの扉は蝶つがいが錆びついている。だから、ガタガタと酷い音鳴ると、ショーの後に、客がゆきずりの相手と楽しんでいるのだと知れた。小汚いストリップ劇場は、同性愛者のハッテン場でもある。アーサーは、眉をしかめることもなく、古い、ボロボロのタオルに油をつけて、ブラックレザーの衣装の手入れをする。今日の自分の出番はもう終いだ。何か、他にオーダーがないかぎりは。彼以外の男性ストリッパーはとうに暗い夜道の帰路についているか、客と楽しんでいるかで、楽屋にいるのは彼一人だった。今ごろ、舞台では女が女に向けてポールダンスを踊っているだろう。 ブルージーンズに、黒のTシャツという、街をあるけば普通の青年も見える格好で、フランシスが戻るのを待つ。iPodの電源を入れ、何か聞くべき曲を探すがすぐに決められない。シャッフル再生をすればいいのだろうが、もしも気分が酷く落ち込むような曲に遭遇すると、憂鬱が加速しそうだった。結局ヘッドフォンを耳にかけることもないまま、鏡に映る自分の顔を見た。憔悴している。人前で演技をするのは、それが性のまがい事でも神経を使う。それは、着飾りながら晒すことを要求される。明日が、休みなだけマシだった。 借金があるわけではなく、喰うところと寝る所があり、仕事があるが、隣の便所から漏れる男と男、女と女のあえぎ声と、扉がはずえれそうなけたたましい音を聞くと、それらがあるからと言って、決して幸福とはかぎらないのだ、ということにいつも気づく。あるいは、それらがあるならば幸福を手にするための最低条件をそろえたはずなのに、強欲に人生を投げ出した頽廃が、チープな不幸を生み出している。ぼんやりとした不安を抱えながら、アーサーは立ち上がって、衣装をクローゼットにしまい、その扉を背にもたれかかった。 今年で自分は23になる。普通の仕事、というのをしてみたいと思う。部屋にただようアンモニア臭を嗅ぐと、破れた服を着て道を歩いていたころ、孤児院にいたころを思い出す。そこでは、虐待というほどの虐待はなかったし、職員の殆どは、普通程度に善良ではあったが、それ以上でもなかった。金はなかったから、腹はすいていて、いつも機嫌が悪かった。 ある日、若い、金を持っていそうな、金髪の男がその孤児院に尋ねてきた。里親候補という奴らしかった。その打診がきたとき、アーサーは少し悩んだ。たとえどんなに善良な人間であったとしても、不幸にもそりがあわなければ、他の普通の家族と同じように小さな日常の悲劇が待ち受けていることには変わらない。それならば、ある種、この先の孤独とひきかえの自由を選んだほうがよいのではないか。まだ10代前半という幼い年齢がそんなことを考えさせた。男はその後、何度か顔を見せにやって来て、結局、外の世界を覗く誘惑に負けて、アーサーは、孤児院を出た。 何故、フランシス・ボヌフォワという、高等遊民の頽廃的なフランス人が自分を選んだのか、その理由をアーサーはまだ知らない。質問したことはあるが、彼の方が口が上手く、いつもいいところまで聞き出せたと言うところでそれ以上を知ることが出来ずにいる。彼が、本当に同性愛者なのかどうかもわからないが、大方、よくあるように、自分の顔か、声か、あるいは雰囲気が、彼の柔らかい部分に関わる誰かに似ていたのか、本当に誰でもよかったのだろう、とアーサーは勝手に推測していた。これは、ある種、完全なる飼育と同じ実験なのだ。きっと。 瞼をゆっくり閉じ、片手で顔を覆う。不安の理由は分かりきっている。このままでは、自分は70まで生きられないだろうからだ。いつか耐えきれなくなって、下手をすれば、29には愚か者クラブの仲間入りをしてしむかもしれない。早く、あの手と声から離れなければならないと思う。毎日、毎日、月曜日も火曜日も水曜日も木曜日も土曜日も日曜日も、彼はいつかフランシスのいない日というのを夢に見ている。そんなことを考える、若い自分の方が世間と同じく保守的で、刹那に価値を見いだせないタイプの人間なのかもしれない。縄でなく、鎖でなく、縛られていると思う。同時に、あの男はきっと自分などいなくとも強かに――それはよく泣く女の強かさに似ている――生きていくだろうと考える。刹那的な快楽主義者は、真実の底から、誰かを必要としているわけではないのだ。楽屋の裏で楽しむ彼ら同様、その一瞬、一瞬で生きていければいいのだろう。 だがしかし、アーサーにはフランシスから離れるという想像も出来ずにいた。それは、自分自身の12までの生い立ちを認めることにもつながってしまう。孤独といえば格好がつくが、結局、寂しいのだ。気持ちが悪いほどに優しい顔をして、性を使って遊ばれながら、結局このまま楽屋の扉を開けて、二度と帰って来なければいいだけなのに、それが出来ずにいるのは、フランシスがアーサーを必要としていなくても、アーサーはフランシス・ボヌフォワを必要としているからだ。心の奥底、軽蔑までしている筈なのに、そのコントロールの一歩向う側にでることが酷く怖くて仕方がない。きっと、彼がこの12年の間に自分をそう躾たのだ、とアーサーは半ば自分に言い訳した。 ノックが鳴った。びくっ、と体を震わせ、開いた扉の方を見た。フランシスだった。 「お疲れか?」 「少し」 アーサーは、クローゼットにもたれたまま、床に視線を移して言った。年上の男は、いつも同じようにその目線と、指にことさらいやらしさを含ませて、アーサーの肩に触れた。それが不快で、意味もないと思っていても顔を反らしてしまう。彼は、いやがられるのをわかった上で、もしくは意図的に不愉快さを増すように、その手を首筋を通って頬へと触れた。アーサーはぐるりと目を回して、それに耐えた。背も同じで、自分の方が若く、力も強い筈なのに、どうにもやめろ、といえない。だから、ノーとだけ口にする。そうすれば、何がノーなんだ?と、ビターチョコレートが溶けたような声で訊かれて天井を仰ぐ。嫌なのは全てだ。この男の存在と、自分のみじめさ。それだけで出来た世界の輪郭は、雨にぬれて冷えた吐きだめのスラムだ。そこは地上だが、すぐ下に無様な地獄が潜んでいる。 「今日は」 そこで言葉を切った。期待している。何もないことを。気まぐれが起こるのを待っている。受け身だ。この先、何か自分は己から手をのばして物を得ることが出来るのだろうか。 「今日はまだ帰らねェよ」 Tシャツの下に手が入った瞬間、自分で思い切りクローゼットの扉に頭をぶつけた。時折、そうやって正気を確認することにしている。今日は、疲れたんだ、と言った。懇願ではなかった。そうするには、もうあまりに病んでいる。鳶色のような、しかしエヴァーグリーンにも見える眼はそこだけ力を持って、年上の男を見返した。柔らかな巻き毛をしたフランシスは、その綺麗な顔の造作のなかで、不思議と白目がバターのような色をしていて、それが彼の頽廃をしめしている。アーサーな心底眼の前の男を軽蔑しながら、小さく身をよじった。首に息がかかる。いやらしさを含んだ手が、乱暴をすることおなく、むしろ優しく触れるのが嫌いだ。耳に、卑猥な言葉を吹き込むその声は、砂サキュバスの者だ。壁の向こう側から相変わらず聞こえる、トイレの蝶つがいがはずれそうなガタガタという音と一緒に倍になって、左から右へ、右から左へと脳を突き抜けていく。苛々した。 フランシスはアーサーの顎をとった。彼は、嫌がるように目をそむけた。生意気で従順さにかけた表情は、フランシスのお気に入りのようだった。離れろ、と彼は小さく言った。フランシスは含み笑いを深くして「誰に口を聞いてる?」と尋ねた。アーサーは答えなかった。魂を売ることが特技になった覚えはまだないが、頬に触れる指こそが、彼に餌をあたえるその手だった。男の唇が押し当てられた。口を開かないでいる。部屋が回転しだし、頭のなかで危険信号がなる。その感触は温かく、そして気遣いを含んでいる。だからこそ嫌悪するのだ。アーサーの髪の毛を探るのではない方の手が、ベルトのバックルとジッパーを外して中に入ってきた。瞬間、ガッと怒りで体が熱くなる。奥歯を噛みしめる。その間にフランシスの唇が頬へ、顎へと跡をたどる。アーサーはもう一度、壁に自分の頭を叩きつけた。クソったれ!屈辱の味を舐めながら、衝撃で口が僅かに開いた。その隙を逃さぬように、フランシスは舌を入れて軽く唇を噛んだ。アーサーは目を少し細めて、腕を彼の背に回した。シャツ越しに、背中についた筋肉と背骨が生きた人間特有の熱を掌全体に伝えた。鼓動が血管を通ってスピードを増す。理性が裂けて、その神へと近づく瞬間に。だが、まだ服従する気はなかった。地べたでいい。犬でいい。とりあえずは生きることだ。生き抜くのは刹那と刹那の積み重ねだ。どうせ同じ地獄なら死ぬよりましだ。矜持を捨ててはいない。相手の掌が、好き勝手に自分の体をはいずり回って、遊んでいる。その間に、時々、唇と唇は離れて息を吸った。しかし、頭はさえた。ガリッ、と嫌な音がした。次の瞬間、フランシスに腹を殴られた。続けて二回。勢い咳き込み、唾を吐いた。床に吐かれたそれには、血が混じっていた。 「やってくれたな、犬」 フランシスは痛む唇をぬぐった。その噛み切られた傷痕から血が流れている。 「躾がなってねぇからな、噛み癖がなおんねぇンだよ」 そう言って、アーサーは少し前かがみになって、フランシスを睨みあげた。上目遣いなどというものではない。明らかに敵意をもった三白眼だった。フランシスは、だらしのない笑みを浮かべるアーサーの髪の毛を引きつかんだ。 「お前を喰わせてるのは誰だ?お前に屋根をやってるのは誰だ?お前に金をやってるのは誰だ?」 俺を喰ってるのがおめーだろ変態、思ったが口には出さなかった。答えなかった。 声は魅惑的で、同時にすごみがあった。一発、二発、顔が殴られようとも気にならない。それよりも嫌いなのはその甘さだ。つねに毒を含んでいる。ああわかる。確かに自分はこれに欲情するようになっている。だから最悪だ。それは被虐趣味だとか嗜虐趣味だとかいうのとはもう、もはや関係ないのだ。反吐を吐くほどに憎悪しながら、過ごした時の長さのせいで、奇妙にも情が湧いている。それは、アーサーからこの男へ向ける、憐れみのようなものかもしれない。 跪け、と言って男はアーサーの肩を押した。隣の部屋からもれる鼻につくアンモニア臭と耳に障るガタガタという揺れと喘ぎ声にも反吐が出そうだ。しかし、彼にとっては毎日が正確に、それと同じものだった。恐怖でなく、諦観と慣れが彼を従順にさせ、アーサーは床に膝をついた。眼だけをギラギラと光らせながら。顔をうずめるように、腰に押さえつけられる。硬い。意識して、怒りと憎悪が消えないように底へと貯める。咥えろ、と言われると思ったが、眼の前に差し出されたのは、孤児院から彼を連れだしたのと同じだった指だった。 「吸え」 沈黙する。 この状況を変える意志はあるか? 地面に着いた膝を離せるのか?それとも床につけたまま跪くか?眼の前にある手を噛めるのか?血が流れるまで噛み砕けるか? その、餌をやる手を。 |