雨に濡れながらロンドンを歩いた。紳士はいかなる時も走らない。夜は暗く、雨雲のせいで星はない。イーストエンドのさびの匂いが好きで、マザーグーズが口からでそうになる。 スティックにシルクハットの俺の姿に、ほどこしを求める乞食が寄ってきた。身ぐるみをはがされることはない。俺はそいつに1ポンドと2 ペンス分だけ、愛を分けてやる。それから、両の頬に口づけを。ただ一人つれてきた護衛が「卿!」と小声でいうのを目で制した。俺は、我が国の国民であれば平等に愛している。 遠くから馬車の音が聞こえる。迎えだ。上司は、俺がこの場所によく立ち寄るのにいい顔はあまりしなかったが、それでも俺の気まぐれを許してもくれた。 実際、イーストエンドには俺の隠れ家の2つが存在する。ひとつはこの護衛も知っているもの、もう一つは誰も知らないもの。誰にも会いたくないときに、俺は誰も知らないその場所に行く。 ここ最近頭痛があまりにひどく、人に会いたい気分ではなかった。誰も知らない、地下の、臭いあの場所にいき、アヘンチンキを飲んで休みたかった。が、馬車の音にそれは許されないと知った。 馬糞が臭い。獣の匂いが鼻をくすぐる。霧の雨。馬車に乗り込む。産業革命以来、大気が随分と汚れている。お陰で、俺は毎日、息苦しかった。毎日、肺に何か黒いものがが溜まっていく気ががする。護衛が、「卿」と心配そうにつぶやく。俺は、大丈夫だ、と薄く笑った。 大英帝国は繁栄をつづけ、文筆家にしてロンドンに飽きたものは人生に飽きたものだと言わしめる栄華を極めている。しかし民は貧しく、金がないから救いがない。わが愛するロンドン、余人に踏みつけられたことのない都市。 「お疲れでしたらどうか、お休みを」という若い護衛が言った。困ったような表情の可愛くなって、頬に手を添えて彼に軽く口づけた。そしたら、彼は真っ赤になって、「私の気持ちをご存知なのに卿はひどい」と小さく吐いた。それに、すまない、とだけ応え、夜霧に耳を澄ます。 休みたくとも俺は、どうにも最近、不眠の気が出てきたのかあまり眠れなくなっていた。眠れたとしても、1時間に1度は目が覚める。小さくため息を吐く。酒の飲みすぎと葉巻の吸い過ぎかもしれないが、体のどこもかしこも疲れ過ぎ、うかれ過ぎていた。 どうか、お眠りを、と。もう一度、いたたまれぬ様子で言う彼のために、ならば、と言って彼の肩にもたれた。小さく、行儀が悪いと言って叱られるから、陛下とベンジャミンには内緒にしてくれ、と呟いてから目をつぶる。彼の肩は震えていた。青年の方は硬く、女の柔らかい胸には遠く及ばないが、それでもその温度に安らぎを感じた。 そこまで来て俺はこれが夢だと気づいた。ルイスキャロルの夢。俺は今眠っている。そして、近くに又、現実が顔を擡げている。閉じた俺の目に、光が差そうとしている。 頭痛も胃痛もアヘンチンキで麻痺させたあの時代。覚醒と昏睡を行き来する意識の中で、そういえば、あの護衛には随分悪いことをしたかもしれないと思った。パブリックスクール出身ならよくあることだ。だが、俺には彼を望む形で愛してやることはできず、俺の戯れにおそらく彼は沢山傷ついた。それでも、確かに愛していたのだといえばあの子は俺を恨むだろうか。 いたずらっ子のオスカーが捕まったのはあの子が年をとって死んだあとだったかどうか。時間がたちすぎた。回転する脳下垂体、ロボトミー。狂気だ。二人のジャックが笑う。俺の中にあるほの暗いものすべて。ああ、パックスブリタニカ!わが大英帝国よ! けれども、俺の中の狂いは、恐らく、これからも、俺の正気を保たせるためだけにあるだろう。時折、他人が狂気に走り暴走し、躁鬱の狭間でけ気怠いのをみて酷く、羨ましくなる。俺だって狂いたかった。はたまた誰かの自己に対する狂信と盲信。全てにおいて残念なのは、俺がどこまでもリアリストだってことだ。現実と経験。倫理より論理より俺が重んじるもの。 そうだ。 雲にさえぎられぼんやりとした太陽の光が、俺の意識を呼び起こす。 薄く目が開いた。それでもカーテン越しに入る明かりが痛い。酷い頭痛がした。二日酔いだ。それでもベッドで寝ただけましだろう。回りには酒の空き瓶が大量に転がっていた。 これじゃ、アヘンチンキを飲んでいたころと大して変わらない。自分の体か酒の匂いがする。その匂いでなぜか、あの頃のロンドンで溢れていた娼婦の豊満な乳房の匂いを思い出した。 なんとか体を動かしてかぶりを振る。水が欲しくなって台所に行った。あの頃は、こんなアパートを持つことも、なんて想像もしなかった。同じロンドンでも庭のある、古くからの屋敷が一番好きだが、それでも俺はイーストエンドのこの部屋もまた愛しい。昔から、コックニーなまりだって好きだった。 ミネラルウォーターを口に運び、ダイニングルームのカーテンを開ける。眼下に広がる魔都。吐き気がするがまだ吐けそうにもない。ここ最近は体調がすこぶるよいといえばよかったが、どこかしら不調はあった。それでも1950年代の、最高に息苦しかったころに比べればましなのだ。霧のロンドンから、霧が消えつつある証拠でもある。あの頃は熱も酷かった。 また一口水を飲む。あたりはどんどん、明るさを増していく。俺はそれに目を細める。夏至が近い。サマータイムは日が差すからいい。光のささない鬱々とした世界は勘弁だ。 最近はまた、どこぞの馬鹿のせいで、酷く体が重い日があったりもする。他にも同じようにどこぞの馬鹿の迷惑を被っている奴が多々いるが、特に俺はひどい。他にも面倒なことはたくさんある。何せ、俺は家族関係がひどくややこしい。兄さん達との仲は最悪で、落ち着いたと思ったらまた面倒が持ち上がっている。しょうがない、俺はいつだって嫌われ者だ。他にも悩みの種は多い。かまわねぇ、一人だって知っていれば、それだけ楽になることだってある。ずれたままだって、いくらでもイケるんだ。 ああ、また気持ち悪くなってきた。熱が出そうだ。これは酒のせいじゃねぇな、最悪だ畜生。水を飲む。ああ気持ち悪い。現実っていうのは面倒臭いことだらけだ。 でも俺は、本当はそれが嫌いじゃない、嫌いじゃねぇんだ。なぜって、朝日のさすこのロンドンはこんなにも美しい。7つの海をわ渡ったが、どこの世界も夕日は綺麗だった。頭の中で音楽なって鼻歌を歌おうとしたら酒で喉が焼けて声が出なかった。情けねぇな。 ああもう、しばらくは、戻らないし進めない。どこにも行けそうにもない。 現実を見て、やれるだけやるだけだ。 そうさ、それでもまだ、続いていくだろう。 |