フランス軍はモスクワに向かってそして敗退した。1812年の話だ。1806年のトラファルガー以来の、完膚なき敗北だった。しかし、それでもロシアは全面的にフランスに勝利したわけではなかった。フランスには、まだ余力が残っていた。そんな1813年、ウェリントン率いるイギリス陸軍は、前年に攻略したスペインのマドリードを先駆けに、ピレネー山脈を通って、フランス領内へとその歩みを進めていた。
 もう日も傾きかけた頃、パトリック・ハーパーはいつものように紅茶を入れ、それを彼の上官と、仲間と、それからブロンドの見た目の程は18の青年にそれを振舞った。
「ありがとう。君が入れる紅茶は本当に美味しい」
 英国軍の、赤い軍服を着たイギリスはそう言って、頬笑みを浮かべた。
「光栄ですよ。サー」
 ハーパーも、同じく穏やかな笑みを浮かべて、シャープの横に腰をおろした。シャープは、ふうふうと、紅茶を覚ましながら口に入れるイギリスの様子が、先ほど「March!( 進め!)」と剣を振って先に立っていた人物の横顔と随分、違う気がして微笑ましい気分になった。彼は、どちらかというと、自分たち――娼婦の息子――とは、違って、貴族然としていて、最初はそれがあまり好きではなかったが、話し、一緒に過ごしてみると、親しみがわいた。自らライフルの扱いを習いに来たり、熱心にシャープからフランス侵攻への意見を聞いたりもした。1000年を超えて生きたという、その不可思議な重みを感じさせる瞬間もあれば、まるで、自分に弟でも出来たように見えるような時もあった。もう、亡くなってしまったパーキンスが、よく彼から昔の英雄譚を聞きたがった。そうすると、彼は、十字軍の話や、黒太子、クロムウェルの話を、彼は目を細めながら、まるで年老いた老人のそれと同じように話をした。ネルソン提督の話になった時は、まだ、彼にとっても生々しかったのか、彼の目が微かな陰りを帯びた。涙はなかった。今日も、同じように、彼は話をした。彼の話は何も、そうした英雄の話だけではない。昔の習慣と今の習慣、歴史上の女傑や美女を並べ立て、あれはいい女だったあの女は今ほどの評判ではない、とかそうした話は彼らを喜ばせた。今日もそんな話だった。その時の、少年の顔を見ると、シャープはほっとした。
「人間はいい。生まれて12年も過ぎれば女と寝れる。でも俺たちはそうはいかない。年は100もとうに過ぎてるのに、見た目は10歳のクソガキだ」
 彼がそう言って、紅茶を煽ると、皆がどっと笑った。
「いいじゃないですか。その代わりに俺たちの100倍は上も下も経験できる」
 ハグマンが言った。
「まぁな」
 そうすると、すかさずハーパーが詰め寄った。
「しかし、聞きたいんですがね。女っていうのは昔から「ああ」なんで?煩くて、癇癪持ちで、ちょっと相手にしないとすぐ拗ねる。昔はもっと、こう大人しかったんですかい?もし、昔は今より、鬼のようだったと言われたら諦めますが」
 シャープが、呆れたように、ハーパー、また奥方と喧嘩したのか?と聞いたが、ハーパーは、そっぽを向くだけだった。イギリスも思わず苦笑して頭を掻いてから口を開いた。
「ハーパー。その答えはこうだ。女は昔から、四月の天気のようだよ。俺は、さっきお前がした質問と同じ質問をいろんな男から受けてきた。けれど、それと同じくらい、女たちからはこんな質問を受ける。『ねぇアーサー!殿方は昔からこうも浮気性なんですの?!そうでなければ女性の気持ちも省みず直ぐに戦いに行ってしまう』」
 その言葉に、ハリスとハグマンが大声を出して笑い、ハーパーとシャープは二人で困ったように顔を伏せた。  と、その時、笑い声の中に甲高い笛の音が響いた。その音を聞いて、シャープのライフル部隊とイギリスは身を固くした。イギリスは、見張りの立つあたりに、二人の青い人影が白馬に乗っているのを認めて目を細めた。
「アーサー卿」
 まだ15を過ぎたばかりに見える赤服に身を包んだ少年兵が、イギリスの名を呼んだ。座ったままイギリスはその兵の声に硬い表情のまま「わかっている」と言った。
「ウェリントンが呼んでいるんだろう」
 苦々しい声でイギリスは言って達があった。同時に、Bastard、とイギリスが小さく呟くのをシャープたちは聞き逃さなかった。


 フランスは、イギリス軍のために働くポルトガルや、スペインの女たちを見定めながら、駐屯地を歩いて回った。
「いい女が揃ってる。どこの国でも女は悪くないもんだ。覚えておけ」
 彼の従者がそのように、と笑った。
「しかし、どいつもこいつも食っている飯が不味そうにも程がある」
 青服で、フランス語を話す二人はそろって赤と緑を纏ったイギリス軍の皆から敵意の視線を受けていた。横に、ホーガンがいなかったら二人もとっくの昔に殺されていただろう。
「イギリスは」
 フランスは、視線だけをホーガンに向けてそう言った。この期に及んでも、決して英語を使おうとしないこの青年に、ホーガンは不快感を覚えながらもフランス語で「ウェリントンと共にいらっしゃる筈です」と感情を殺した声で答えた。
「筈?さっきは、娼婦の息子たちと一緒に話をしてたのが見えたけどな」
 続けて、彼は、俺はあんたよりも奴に詳しいんだ、と言った。綺麗な見目をしたこの、一種貴公子然とした青年は、フランス革命後の市民よりも、その前の腐敗した貴族社会をホーガンに彷彿させた。ホーガンは、その想像を頭の片隅に追いやり、自身の母国にこの彼の扱いを投げることにした。
「サー・ウェリントン、ムッシュー・フランシス・ボヌフォワのお越しです」
 幾分か憂鬱な気分で、それでも感情を抑えた声で、ホーガンは言った。同じように、感情を感じさせない声で、「入れ」というウェリントンの声がした。
 中に入ると、いつものように卓にかけ、羽根ペンを片手にしているウェリントンがいた。その横で、苛立ちを隠しもせず今にも長剣に手をかけそうな様子でイギリスは立っていた。口を開かず、ただ、フランスの目を睨みフランスの口が開かれるのを待っていた。フランスは、二人に向かって恭しく一礼すると、フランス語で「皇帝からのお言葉を伝えに」と言った。この期に及んで彼は英語を話す気などさらさらなかった。 「率直に言って、イギリス軍にはフランスから手を引いてもらいたい。そうすれば、フランスはイギリスを進攻しないと約束しよう」
 しばしの、沈黙が下りた。戸惑う皆をおいて、イギリスは一笑でその静けさを破った
「今さらそれを言って、引き返せるとでも?それともあと1000年、ドーバー海峡は渡らないという約束かこれは」
 対する彼も、流暢なフランス語で返した。まだこの当時、フランス語はヨーロッパの公用語だった。
「お前が望めばな、イギリス。このままウチの領内に入って戦ってみろ。お前は多くを失うぞ。ナポレオンはやる気だ」
「本気でそれを思っているなら、お前はただのバカだ」
「相変わらず、可愛くない奴だ。その首をくびり落としてやりたいね」
声から余裕めいたものが薄れて、ホーガンは、フランスそのものであるらしい20位の男が随分と疲れた顔をしているのにはじめて気づいた。
「ロシアに手酷い負けを食らったな。まだ、傷も癒えてもないだろう……。お前から血と氷のにおいがする。ここが叩きどころだとわかっていて、引く阿呆が何処にいる?スペインも、プロイセンも、そしてこの俺も、いつだって乾杯の言葉はDeath to Franceだ。わかるだろう」
 イギリスは酷く楽しそうに言った。フランスは、小さな笑みを張り付けたまま、そうか、と小さく言った。それから、肩手で顔を覆って面白そうに笑った。
「……ところでイギリス。俺がロシアに言っている間にお前はアメリカに行っていたそうじゃないか」
 イギリスの肩が、ひくり、と動いた。
「あのお前の愚かな弟は元気だったか?まったく気の多い奴だよなぁ、お前も。この俺と闘いながら、アメリカに平気で銃口を向ける。素晴らしいな」
「フランス」
「もっとも、その若人にほんの……半世紀前か?は手酷く負けて恥をさらしたな。今回も勝ちという勝ちじゃなかったらしいじゃねぇか。全く、新大陸の無法者相手に――」
「黙れ」
 イギリスの声が硬質なものになった。ホーガンは、なんとはなしに嫌な予感がして、ウェリントンの肩を叩き、書類とインクと羽根ペンを片付けるように目で示した。
「予言してやるよ、フランス。王も王妃も失ったお前は、しばらく後に、皇帝も失うだろう。お前の時代は終わりだ。そうだ、欧州の時代が終わって、これからは海の――俺の時代だ」
 今度は、フランスの目が細くなった。彼はゆったりとイギリスの前へ進んだ。ほとんど顔をくっつきそうな程に前に進んでそれから、イギリスの腰にある、長剣の柄に手を添えた。
「決闘でもしたいっていうなら、受けて立つぜ」
 イギリスは、その手を軽く払うと、「この陣営では決闘は禁止されている」と事務的に言った。
「意気地がねぇなイギリス男は」
「お前と俺とじゃ、勝負が見えてる。そんな賭けをしても面白くないんだよ。剣で戦うならせめてプロイセン相手だな」
 そのセリフにフランスは顔を傾けた。そのしぐさでウェーブを書く髪が揺れた。
「あいつなら、イエナで派手に俺に負けたぜ」
「6年も前の話だ、それも。そしてトラファルガーと同じ年の話だ」
 ウェリントンは、ホーガンを見て、小さく「シャープを呼んで来い」と言った。ホーガンが、片眉を跳ね上げたが、ウェリントンは小さく方をすくめるだけだった。ホーガンが、自分より十倍以上の年を重ねているはずの青年二人が不穏な雰囲気を漂わせているのを、ちらりとみやって、幕から出た。
 ホーガンが、幕から出て二歩歩みを進めた瞬間、口汚い罵声とそれから激しい殴り合いの音が聞こえた。ホーガンは、その音に一度だけ振り返り、ただ諦めたように首を振った。

 ホーガンに迎えられたシャープは訳も分からず、やつぎばやに質問をした。
「あのフランス人二人組はなんなんです?!いったい……」
「ついてこい、そうすれば分かる。アーサー公もご一緒だ。なんならお前らも来るか?もしかすると面白い見ものかもしれんぞ」
 そういってホーガンはchosen menを見渡した。彼らは、一同目を合わせ、それから立ち上がった。訳が分からないなりに、ウェリントン公の天幕前まで近づいて、シャープはその様子に目を見張った。
「ポワティエの戦いの恨みだ」
 そういって、フランスはイギリスに掴みかかり、その腹に蹴りを入れようとそいた。
「カトリックの癖にプロテスタントの戦争に出しゃばりやがって!」
 間一髪でそれを避けたイギリスがフランスに体当たりをしたが、フランスはかろうじて受け身をとった。
二人はしばし離れて、にらみ合い、それからどちらともなく腰の剣を抜いた。
「……なんなんですこれは!」
 驚愕にシャープはかすれた声を上げた。
「あの青いのは、フランシス・ボヌフォワとおっしゃる。我らがいま、戦っている国そのものだ」
 シャープは一瞬納得したように、彼ら二人を見渡して、それからなんとも言えない戸惑いで、顔にしわを寄せた。フランスの従者も同じく困ったように、顔を覆っている。彼はホーガンにむかって「お互い国のために苦労しますな」と英語でいった。ホーガンは「全く」とフランス語で返した。しかし、とうの二人は、それも気にせず、激しく鍔競りあいを続けている。顔に、軍服に傷がつき血を流すが構う様子がない。
「シャープ。お前、あれを止めろ」
 殆ど見物に外に出たらしい、ウェリントンの言葉に、シャープは再びWhat?!と声を上げた。
「何を言ってるんです。彼らは国なのでしょう?私ごときにそれが止められると――」
「お前の今までの強運を鑑みればいけるだろう。大丈夫だ、お前にはきっとイングランドの加護がついている」
「そのイングランドがいま「あれ」ですが」
 ホーガンもウェリントンも、シャープにただ、目線を寄こすだけだった。彼らの愛する祖国は、血走った眼で、その喉に剣を突き刺さんと争っている。しかしその戦いに終わりが見える様子はなかった。イギリスがフランスの股間を蹴りあげると、フランスが一瞬、うめいてすぐにイギリスのそこにめがけて肘を当てた。二人はよろめきながら、今までの数々の戦、政変、人間の名を口にしながら争った。その様に目が慣れたシャープは、唐突に「パトリック!」と呼んだ。
「はい、なんでしょう、サー」
「バケツに水を張ってこい。できたら3杯ほど」
「Yes sir!」
 ハーパーは、面白そうに笑って軽く敬礼すると、ハリスを連れて、あっと言う間にとその場を去った。  土に混じり、泥にまみれながら尚、お互いを攻撃する手を緩めぬイギリスとフランスを見て、これが因縁というものかとシャープは思った。そこにいるイギリスは、自分が知っている、戦の猛将でも20を前にしたような青年でもどこか、神聖な雰囲気を持つ母国でもなく、ただの目の前の相手を酷く憎んでいる個人のように見えた。回りが全く見えていない。いつしか、イギリスが、「国が傾けば俺たちも同様にけがを負い、病にかかる。そういう風にできているんだ」と言った。だとすると、彼らの疲労や傷、そして病は現実、並大抵ではないだろうと推測したがここにいる二人にはそれを感じさせはしなかった。それはそうだろう、戦士にとって、痛みは友だ。
「これで」
 ハーパーとハリスがバケツを手に帰ってくると、「よし、いいぞ」と言って自分もそれを一つ持ち、前に進みでた。ウェリントンとホーガン、それからフランスの従者は逆にそれぞれ一歩下がった。シャープは、なぜか少し愉快な気分になるのを感じた。顔が笑っている。その歩く勢いでそのままバケツの水を二人に思い切り打ちかけた。二人の動きがとまったそのうちに続けて二回。ハーパーとハリスが同じように水を投げ捨てた。
 水を滴らせながら、呆然と尻もちをついている二人をシャープは見下ろした。イギリスは漸くそれに気づくと無言のままシャープを睨みあげた。フランスが、彼の言葉でイギリスに向かって早口で何か言ったがシャープは聞き取れなかったのでそれは無視した。
「失礼。喧嘩遊びがあまりに楽しそうだったので、次は水遊びでもどうかと思いまして」イギリスから敵意の視線を向けられるのは、シャープにとって初めての体験だった。だが、しかし自分の分の悪さは悟ったらしく、しばらくして目をそらした。
「イギリス。お前のところでは客人に水をぶっかけるのが英雄のマナーなのか?」
「だれが客人だくそったれ。だいたい元々お前が」
「すみませんが、もう一度水を汲みに行ったほうがよろしいですか?」
そうシャープがいうと、イギリスはうつむいて、小さく「すまない」と言った。叱られた子供のようだ、と思ってシャープはますますおかしな気分になった。隣のフランスはそっぽを向いて唇を噛んでいる。昔、妻のテレサにフランス語を少しならった程度のシャープに彼らが早口で交わす会話の全ては聞き取れなかったが、その全てが罵詈雑言のたぐいであることは理解出来た。シャープが肩をすくめると、イギリスはゆっくりと立ち上がり、気持ち悪そうに濡れた服の下で震えた。
 ホーガンはその一部始終を見やって、胸ポケットからブランデーの入った金属ボトルを取り出し、それを一口飲むと、隣の、青服の従者に無言で進めた。フランスの従者は、「メルシー」と答えて、それを受取ったが、無表情のイギリスがぬっと、前まで近寄って、黙って、それを奪い取ると、思い切りそれを飲みこんだ。それから、ホーガンの指からキャップを受け取ると一度そのボトルを締め、「ほらよ」とフランスの方に向かってそれを投げた。座ったままのフランスは、それを空中で受け取ると栓をあけ、同じように思い切り飲んだ。
 イギリスと目を合わせたホーガンは、やれやれと首を振った。
「酒だ。酒を持ってこい。フランス産のワインだろうが、アイリッシュウィスキーだろうがなんでもいい。それから服だ。火も用意しろ」
 イギリスは、声高だかに言った。ウェリントンも首を振って「私はこれで」とイギリスに向かって挨拶をすると、すぐに自分の天幕へと消えていった。
 ホーガンは、イギリスを睨みあげて「いい酒だったのに」と呟いたがイギリスが「こんどラム酒でも送ってやる」というので「わかりましたよ」と渋々頷いた。イギリスは再び、フランスの横に腰を下ろした。フランスから、ホーガンのウィスキーボトルを受け取りながら「全くやってけねぇぜ」と言った。フランスも「ああ、全くだ」とうなづいた。
 シャープは、自分も酒のおこぼれにあずかろうと、とりあえず決め、本来は将校の仕事でもないだろうと思ったが、彼らのために自分のとっておきをボトルを探しに行った。