イエローキャブでマンハッタンから、ジョン・F・ケネディ空港、ラガーディア空港と共にニューヨークの3つの玄関口となる空港の一つ、ニューアーク空港に向かっていた。他の二つと違い、ニューアーク空港はハドソン川を挟んだ向こう側のニュージャージー州にある。しかし、マンハッタンからのアクセスが最も良い空港で、イギリスもニューヨークに来る時はよく利用していた。 彼が、今回ニューヨークに来たのは、珍しく仕事ではなく私用で、今はその帰路だった。ロンドンのブラックキャブの乗り心地と比べながら、イギリスは窓から見えるハドソン川を眺めた。17世紀にオランダからの依頼でこの周辺を探検した、イギリス人冒険家のハドソンの名にちなんだ川である。その川には、緑と空の太陽が映っていた。まるで、この日のこの国の浮かれ具合を象徴しているかのような天気だった。ロンドンでは、灰色かもしれないが、コッツウォルズに行けばイギリスの空も青い、と誰に言うでもなく胸にしまう。川が日差しを反射するのに目を細め、サングラスをかけた。視界は、色を無くした。 空港に着くと、イギリスは高速道路代と州をまたいだ割増料金、それから荷物を降ろしてもらったチップを運転手に支払い、搭乗手続きに向かった。主要都市の空港らしく、混み合っているのに少々辟易する。また、いつにも増してどこもかしこも、星条旗を掲げているのも、また彼の気分を降下させた。今日は、アメリカ合衆国独立記念日だった。 手続きを済ませ、腕時計で時間を確認する。時刻は17時過ぎ。出発時刻まであと、1時間半以上ある。待つ間、軽食も兼ねて空港内のコーヒーショップで時間を潰すことにした。甘いものが、食べたい気分だったので、三角のキャラメルスコーンとアイスティーのストレートを注文する。席について、スコーンを齧りながら、イギリスは荷物から読みさしのミステリーを取り出すと、回りの会話からたまに聞こえる「4th of July」「July 4th」という英語から逃げるように、サングラスを外してそれを読み出した。 ミステリーの舞台はリヴァプールだった。その街の歴史を紹介しながら、ビートルズの歌にのって事件は展開を見せる。港町。小説からは、血の匂いに混じって潮の香りがした。18世紀、奴隷貿易によって栄えたその街で、主人公の若い刑事が右に左に奔走する。彼は、自身についても悩み苦しんでいる。過去には、誰でも負の遺産を抱えているものだ、と、イギリスは主人公に同情を寄せた。勿論、登場人物は皆、またそれぞれに苦悩を抱えている。昔、死んでしまった少女の影を追う、美人局。自分を苦しめた兄に対して複雑な感情を抱く女性。殺された男の弟達の沈黙。被害者の過去を追ううちに、主人公は自身の過去も内面で追っていく。力強くどこまでも続く海を見ながら、主人公はHelp! I need somebodyと鼻歌を歌う。若かったころは何も怖くなかったのに、今はとにかくおびえてるし、気分がdownしてる。誰でもいいってわけじゃないが、助けてくれ、自分には誰か必要なんだ。速いリズムと、明るい曲調に似合わない歌詞を、昔、多くの船が行き来していたその港をは吸い込んでいく。抑制された描写で、で悲劇は進んでいく……。 時間になって、イギリスは本を閉じた。残りはあと少しだが、機内で読めばいい。荷物を持って、ターミナルに向かう。着替えとパスポートと財布、それから、アメリカへのプレゼントしか持って来なかったので鞄は軽い。会議や式典と言った、仕事がらみ以外でこの時期にアメリカに来たのは実は初めてだった。ほとんど毎年、この季節にはカナダのトロントで英連邦と、それから何カ国かと過ごしアメリカには寄らずに帰国する。今年はトロントに来たのが5日前。が、例年ならすぐに帰国するところが、昨日、ニューヨークに来た。出国手続きを済ませ、荷物のチェックを受けながら、随分と時間がかかったと思うと同時に、全てがつい昨日のようで、嘆息した。数時間前に会った、アメリカの顔を思い出す。「hahaha、やっぱり君はどんな日でも君なんだな、安心したよ!」と言った顔だ。空港内のディスプレイに映る、自由の女神像に内心で中指を立てながら、何が「安心したよ」だ、とイギリスは思う。俺が、今ここにいることと、紙袋一つの手土産に驚いたお前の顔。それが答えだ。 出発前のロビーに座り、搭乗時間を待つ。過ぎ行く人々を観察しながら、7月4日を思った。パーティーでは、皆、それなりに楽しそうだった。最後には、伝統行事となっているらしい、花火を皆と見に行くのだろう。それを見る気は、まだしない。 前を見れば、ガラス張りの向こうに、いくつもの飛行機が見える。空は、茜色。隅に掲げられている星条旗が陽に染まる。その旗の赤は勇気を、白は正義を、青は自由を。俺が「勇気」か?素敵なジョークだ。初代合衆国大統領の「赤は祖国を、白は祖国からの独立を表す」というセリフを受けて考えながら、イギリスは数日の強行軍に疲れた体を、安いエナメルのソファに沈める。コンクリートの灰色の道。眼をつぶると、黒炭の煙の色が浮かぶ。ニューヨーク港にうなる蒸気機関船の音が聞こえるようだ。それは今、ガソリンを燃やすエンジン音にとってかわる。眼を開けた。お前が、今宵、花火とともに高らかに合衆国国歌を歌うなら、俺はその岸の遥か向こうで、女王陛下万歳と、ルール・ブリタニアと叫んでやる。イギリスはひっそりと小さく笑った。洒落と趣向を凝らした紙袋の中身をアメリカが気に入るかはわからない。渡す、というその目的は果たしたのだ。ケーキも食べず、本日帰国する。合衆国では休日だが、UKでは平日だ。諸々の釣り合いを考えれば、一発入れることくらい許されるだろう? アナウンスに従い、機内にのる。ビジネスクラスのシートは座り心地がよい。また、例のミステリーを取り出す。しかし、飛行機が離陸してすぐに読み終わってしまった。本をしまって、イギリスは窓からのぞく景色を見る。オレンジに染まる陸地。日はだんだんと西に沈んでいく。暗くなる景色。海からなら、きっと沢山の星が見えるだろう。その星をたどって陸へと帰るのだ。 窓から目を離す。また、本を取り出した。今度はミステリーではなく、コメディだ。その本を開く前に、イギリスはもう一度だけ、窓の向こうに目をやった。それから、少し泣きそうになりながら、小さく、隣の席に聞こえないようにして「Happy July 4th, America」と呟いた。 そして今度こそ本を開き、ブラックジョークとswear wordsが溢れる笑いの世界に潜り込んだ。 大西洋のあの海のにおいを、まだ覚えている。 |